大久保忠世は戦国時代の徳川家康の家臣です。大河ドラマどうする家康ではダンディーを気取りながら前髪の薄いのを気にするコミカルな役割を演じています。徳川四天王に比較して活躍の場が少ない忠世ですが、縁の下の力持ちとして徳川家を支えた功労者でした。
この記事の目次
松平家の譜代、大久保忠員の長男として誕生
大久保忠世は天文元年(1532年)大久保忠員の長男として誕生します。大久保氏は徳川家康の祖父・松平清康から松平氏に仕える古参であり、忠世の家は支流でありながら手柄を立て続け、伯父である大久保忠俊の本家をしのぎました。
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防御力が高い不死身の忠世
忠世の性格をあらわす逸話に面白いものがあります。三方ヶ原の戦いで徳川軍が惨敗した時、忠世は意気消沈している味方を励まそうと天野康景とともに夜中に武田の陣のあった犀ケ崖まで奇襲を掛け銃撃して混乱に陥れました。この話を聞いた武田信玄は「勝ったとはいえ、恐ろしき敵であった」と感心したそうです。ただ、この逸話は信ぴょう性に難があるそうです。
また、忠世が天正元年(1574年)に、武田方の武将天野景貫が守る遠江犬居城を攻撃した際、敵兵の抵抗で崖下に突き落とされた事がありました。普通なら、全身打撲でとても動けない状態になりそうですが、忠世は独力で這い上がり待ち伏せしていた敵兵3人を一度に斬り捨てて、脱出したそうです。このように忠世は、生還不可能な状況でも高い防御力を活かして生き延び、敵に打撃を与える、なかなかの猛将でした。
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長篠の戦いではスッポンのように敵に食らいつく
大久保忠世は、長篠の戦いでは、弟の大久保忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好と3人で活躍、武田軍に食らいつき離れないしぶとい戦いぶりを見せ、織田信長から「良き膏薬の如し、敵にくらいついて離れぬ膏薬侍なり」と褒め称えられ家康からは褒美としてほら貝を与えられています。
膏薬とはサロンパスのようなもので、薬の成分が取れないように油紙の裏に薬を塗って皮膚にはりつける薬です。言い換えれば忠世はスッポンのように敵に食らいついて戦う、敵から見ると嫌な武士だったのです。
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武田勝頼に備えて二俣城の城主となる
長篠の戦いの後、家康から対武田の前線である二俣城の城主に命じられます。忠世は城の改修をしていますが、現在も二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいの鳥羽山城の庭園は、忠世が手がけたものだと言われています。
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信州惣奉行となり本多正信の帰参を助ける
本能寺の変後、家康が甲斐と信濃に勢力を拡大すると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番、徳川家康に降伏していた依田康国の監視と後見人を務めます。天正13年(1585年)の上田合戦では、鳥居元忠や平岩親吉と共に真田昌幸と戦いますが大敗しました。また、本多正信と縁があったようで、三河一向一揆の後で家康から離反して各地を放浪していた正信の帰参を助けています。
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元祖、断食で整う武将だった大久保忠世
現在でこそメジャーなプチ断食ですが、大久保忠世は元祖戦国の断食武将でした。忠世は武士たるもの急な戦でお金がないという事があってはいけないと考え、1ヶ月の内の7日間は、食事を一切摂らない日を設定する大掛かりな断食を組み込んで、超節約生活をしてお金を貯め、この習慣を死ぬまで続けたそうです。
普段から、質素にするのではなく、1ヶ月の内で7日間、断食するというのが忠世らしい極端というか思い切った性格を象徴していますね。でも、それを継続していたという事はプチ断食の「整う効果」を認識していたのかも知れませんね。
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小田原4万五千石の城主として大往生
天正18年(1590年)後北条氏が滅亡して家康が関東に移封されると、忠世は豊臣秀吉の命令により小田原城4万5千石を与えられて城持ち大名に昇格。それから4年後に63歳で死去しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
大久保忠世は、本多忠勝や榊原康政、井伊直政のような一線級の名将に比較すると、やや地味ですが、徳川随一と考えられる耐久力を持ち、通常なら生還できない戦いでも生還する不死身の三河武士でした。ドラマでは、大怪我のシーンはよく出てくるものの、まだ大活躍のシーンが描かれていませんが、今後不死身ぶりを見せてくれるかも知れませんね。
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