どうする家康26話「ぶらり富士遊覧」では、織田信長と徳川家康が揃って富士山見物をするシーンが描かれました。この富士遊覧旅行は武田を滅ぼした信長の凱旋旅行であり、その様子は念入りに信長公記に描かれています。史実でも家康が大金をはたいた信長接待旅行を見てみましょう。
街道を広げる家康
織田信長の富士遊覧旅行は、1582年4月10日甲斐の笛吹川を渡った左右口という場所に陣を敷いた所から始まります。家康の熱の入れようはすさまじく、織田軍の兵士が担いだ鉄砲に草木が当たる事がないよう周囲の樹々を伐採し、街道を広げ石を取り除き、そして信長に万が一の事がないように街道の左右には無数の兵士を並べて警護しました。
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山の上にも休憩所を設ける家康
翌11日、織田軍は左右口を出発、女坂を登り山道に入ります。この山道でも家康は織田軍の兵士が途中で難儀をする事がないよう、ポイントごとに休憩所を置いて酒と肴でもてなし、同時に厩を置いて馬を常備しいつでも馬が取り替えられるように記を配っています。
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密林を伐採し道を通す家康
女坂を抜けて次の柏坂は鬱蒼とした森で獣道でしたが、家康は人夫を総動員して大木を切り倒して街道を広げ、石を取り除いて、小奇麗な休憩所を立てて酒と肴で織田軍の兵士をもてなしています。この日は本栖という場所に織田軍の陣が敷かれますが、信長のための宿泊所を新築して内装も凝り暗殺防止で三重の柵を設け、また兵士のためにも千以上の小屋を建て食事を提供したと記録されています。
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信長の為に天竜川に橋を架ける
富士遊覧の途中、信長は大井川と天竜川を渡河します。大井川は人足が旅人を肩の上に乗せたり、輿に乗せて渡りますが、次の天竜川で織田信長はとても感動しました。当時、天竜川には橋が架かっていなかったのですが、家康は3人の家臣を奉行とし、舟を何百と並べて架橋し頑丈な縄百本以上で両岸から引っ張り安定させました。
当時から天竜川は暴れ川であり、馬が渡れるような橋を架ける事は難工事でしたが、3人は挫ける事無くやり遂げ、織田軍は濡れる事なく天竜川を渡る事が出来たと信長公記は記録します。信長は自身も街道整備に大金を投入しているので、家康の真心を強く感じた事でしょう。
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歴史的名所も押さえる
家康は街道や船橋だけではなく、また食事ばかりでもなく織田軍が通る街道沿いの歴史的な名所もルートに組み込んでいました。富士の裾野である、かみのが原は当然として、浅間神社、白糸の滝、源頼朝が狩りの館を建てた上井手の丸山、清見が関、興津の沖の白波、羽衣の松等を案内。もちろん行く先々にはガイドを置いて、信長の質問攻めにも対応しました。知的好奇心が旺盛な信長をイライラさせず、ただちに対応するあたり家康は信長をよく知っていると言えそうです。
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酒と肴は京都から取り寄せる
家康は織田軍の兵士に出す酒と肴、食事やお土産も、はるばる京都や堺から取り寄せ失礼にならないように気を配りました。信長は終始上機嫌であり、家康に吉光作の秘蔵の脇差を与え、家康の家臣にも備蓄していた兵糧米、八千俵を与えてねぎらいました。
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日本史ライターkawausoの独り言
このように家康は桁外れのお金をかけて、信長のみならず織田軍の兵士に至るまで、全力で接待をしました。極度に世間体を気にする信長は、これだけの事をしてもらったのだから、家康に倍返しでお礼をしないといけないと内心では考えていた事でしょう。
こうして翌月に、今度は信長が家康を安土城に招待し、明智光秀が接待役を務め空前絶後の大盤振る舞いをする事になります。そこで不始末をしでかした光秀は信長から見ると俺の顔に泥を塗ったという事になり、折檻を受けた上に役を解任され秀吉の手伝いで毛利攻めに向かうのですが、家康の一生懸命さが本能寺の変を招いた側面もあるのでしょうか?
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