NHK大河ドラマ「どうする家康」において序盤から家康を支えてきた人物に酒井忠次と石川数正がいます。どちらも徳川家臣団では別格の扱いで家康の命令で他の家臣を統率する役割を担っていました。しかし、この中で石川数正は豊臣秀吉の引き抜きに応じて、家康を裏切り出奔してしまいます。それはどうしてなのでしょうか?
この記事の目次
理由1 石川家の家督を継げなかった
石川数正が徳川家を出奔した理由の一つとしては、石川宗家の家督を継げなかった事があります。数正の父である康正は三河一向一揆で一揆側について家康と戦いました。そのため、家康は康正から石川家の家督を取り上げ、数正の叔父である石川家成に家督を継がせました。数正は、奪われた家督を奪い返す為に努力しましたが、家康は家督を数正に返しませんでした。この事に不満を持った数正が出奔して豊臣に仕え、信濃松本藩の初代藩主となる事で家督の再興を図ったという説です。
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理由2 豊臣の実力を知らない武断派を黙らせるため
石川数正は、古くから外交窓口として今川氏真から家康の正室である築山殿や松平信康を取り返したり、織田信長と清須同盟を結ばせるために尽力しました。その後、豊臣秀吉と家康が敵対関係になって後も、数正が交渉の窓口であり、数正は秀吉の実力をよく知っていました。
しかし、本多忠勝や榊原康政、井伊直政のような武断派は秀吉の実力を知らず、戦えば勝てると安易に考え、しばしば主戦論を提示して数正と争いました。そこで数正は自分が出奔する事で武断派にショックを与え、秀吉の実力を理解させようと考えたとする説もあります。
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理由3 松平信康の後見人だったため
石川数正は家康の嫡男である松平信康の後見人を務めていました。しかし、信康は生母の築山殿と武田勝頼に通じたとする疑惑を持たれ、家康により処刑されています。後見人である数正は面目を潰した形になり、信康事件以後、徳川家で肩身が狭く、秀吉のスカウトを受けた時に、これ幸いと出奔したとする説です。
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戦国時代、出奔は珍しくない
徳川家に激震が走った石川数正の出奔ですが、戦国時代は売り手市場であり、何度も主家を替えるのは珍しい事ではありませんでした。では、どうして数正の出奔が大事件として特筆されるのでしょうか?一番、大きいのは数正が家康が今川氏の人質だった時代からの家臣であった事。そして酒井忠次と共に西三河の政治の全般を担当していた点です。数正は徳川の手の内を知り尽くしていて、家康は徳川の軍事機密が秀吉にバレたと考え、軍制を甲斐武田氏のものに変更しました。このように数正は出奔が珍しくない戦国時代でも、天下人家康の事を知り尽くしていたために、徳川家に多大な迷惑をかける事になり、そのせいで出奔が特筆されるようになったのです。
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石川数正は家康に逆恨みされなかった?
結果的に家康に迷惑をかける形になった石川数正ですが、その後家康に逆恨みされなかったのでしょうか?数正自身は豊臣秀吉よりも前に死去したので、家康の報復を受ける事はありませんでした。しかし、数正の子である康長はそうはいきませんでした。関ケ原の戦いから10年後の慶長15年、松本藩で筆頭家老の渡辺金内と若手実力者の伴三左衛門との間で、藩政の主導権争いが発生します。事件の裏には家康がいて、家中騒動を理由に松本藩を取り潰す気だったようです。しかし、この時は、康長の縁戚である大久保長安が、宿老秋山治助を内紛に介入させ、若手の三左衛門を放逐して騒動を収めました。
ところが家康は諦めていませんでした。1613年に大久保長安が亡くなり、不正な会計など長安の汚職疑惑が発覚(大久保長安事件)。この時、家康は大久保長安の息子達を残らず切腹させて大久保家を断絶させると、石川康長兄弟も長安と縁戚だから咎めがあるとして改易されたのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
家康は石川数正の出奔を許さず、自分が天下を取ると死んだ数正の息子達を無理矢理な理由をつけて改易させ、大名としての石川家は滅んでしまいました。家康を裏切ったのは、数正だけでもありませんが、人質時代からの関係だけに、家康も黙って勘弁する気にはなれなかったのかも知れません。
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