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源義経の逃げた場所はどこ?悲劇の逃亡ルートに迫る

12/08/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

粗暴と純粋が混在したような源義経

 

源義経みなもとのよしつねは兄の頼朝よりともと協力して平家へいけ滅亡に大いに貢献し、鎌倉幕府かまくらばくふ創設最大の功績者と言ってもよいでしょう。

 

ブチギレた源頼朝は源義経と源行家に出陣

 

しかし、平家へいけ滅亡後は頼朝よりともと対立し、命を狙われる立場となってしまいます。そして義経は逃亡生活に入るのですが、今回の記事ではそんな源義経みなもとのよしつねの逃げた場所と逃亡ルートについても考えてみたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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逃亡するまでの義経

源頼朝、源義経と異母兄弟だった源範頼

 

源義経みなもとのよしつねは源氏の棟梁「源義朝みなもとのよしちょう」の9男として生まれました。義朝は「平治の乱」で敗死し、義経は逃亡し、寺に入れられます。

 

源義経を匿って養育していた藤原秀衡

 

しかし、義経はそこから逃げ、「奥州藤原氏おうしゅうふじわらし」の下で養育されます。そんな中、兄の頼朝よりともが平氏打倒を掲げ挙兵、義経もはせ参じます。

 

源義経の八艘飛び

 

そして義経は軍事面で大活躍し、ついに「壇ノ浦だんのうらの戦い」で平家へいけを滅ぼすことに成功します。しかし、戦後は勝手に官位を受けるなど、独断専行も目立ち頼朝よりともと対立、頼朝よりともは義経を追討することにするのです。

 

 

最初は吉野へ逃げる

鎌倉を出禁になった源義経

 

義経追討令を受け、義経はまずは「吉野よしの」に逃亡しました。「吉野よしの」は現在の奈良県南部にあたり、義経は妾の「静御前しずかごぜん」とともにそこに逃亡しました。元々は中国地方や九州地方に逃げようとしたのですが、暴風雨で果たせず、吉野よしのに逃亡したのです。吉野よしの山にある「吉水神社きっすいじんじゃ」に義経は助けを求め、そこでは5日間にわたり義経たちを匿ったと言います。

 

静御前(女性)

 

しかし、そこにも追手は近づき、義経一行は吉野よしの山奥深くに逃げますが、そこは女人禁制で泣く泣く、義経は静御前しずかごぜんと別れます。その後、静御前しずかごぜんは捕まりますが、北条政子ほうじょうまさこのとりなしで命は助けられます。

 

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北条政子

 

 

平泉を目指す義経

兄と喧嘩して逃げてきた源義経を匿う藤原秀衡

 

その後、義経一行はかつて世話になった「奥州藤原氏おうしゅうふじわらし」を頼るために北へ逃げます。義経たちは追手の目をごまかすために「山伏やまぶし(修行僧)」に変装して逃亡します。

 

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「如意の渡し」

義経記 書類

 

北へ逃げる義経たち、越中えっちゅうの国(富山県)の「如意の渡しにょいのわたし」に到達します。ここで渡し舟に乗り、川を渡らないとなりません。しかし、舟主の「平権守たいらのごんのかみ」は山伏やまぶしたちを怪しみ、「義経ではないか」と疑いをかけ、一行を問い詰めます。

 

 

武蔵坊弁慶

 

すると義経の家来「弁慶べんけい」は「お前が義経に似ているからこんなことになったのだ。」と義経を扇で何度も打ち据えます。これによって疑いは晴れ、川を渡ることができたのです。これは「義経記」に記載されるエピソードですが、これが歌舞伎の「勧進帳」の基になりました。

 

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「直江津」にて

自由奔放で武蔵坊弁慶を振り回す源義経

 

「直江津」(新潟県)に差し掛かった義経たち。ここでも疑いをかけられ、荷物を調べられます。すると、彼らの荷物からは山伏やまぶしが持つはずもない「鏡」や「櫛」が出てきたのです。さらに鎧が入った箱を調べられようとします。ここで弁慶べんけいはとっさに「この箱にはご神体が入っている!開けると罰が当たるぞ!」と脅し、そこを通過することに成功します。

 

 

何とか奥州にたどり着く

兄の下に向かう源義経を引き止める藤原秀衡

 

こうして苦労して義経たちは奥州にたどり着きました。当時の奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの当主は「藤原秀衡」。彼は幼少期に寺から逃亡した義経を匿って養育していたことがありました。

 

逃げた義経が住んでいた屋敷は?

源義経が大好きな藤原秀衡

 

藤原秀衡は義経に屋敷を与えて匿いました。秀衡には頼朝よりともから「義経を匿っていることは知っている、謀反を計画しているのではないか。」と詰問されていますが、のらりくらりとかわしていました。そんな秀衡が義経を住まわせていたのが「高館」という場所です。その場所と推定されるのが岩手県平泉町にある世界遺産「無量光院跡」の近くにある「高館義経堂」と言われる場所です。このお堂は江戸時代に建てられたもので、現在は義経の木像や義経一行の慰霊塔などがあります。

 

 

義経終焉の地

源義経のチンギス・ハン説

 

藤原秀衡は義経を立て、頼朝よりともに対抗しようと考えていましたが、義経が奥州に逃げてから9か月後、秀衡は亡くなります。秀衡は「義経を大将軍として鎌倉に対抗せよ。」と遺言します。しかし跡を継いだ「泰衡」は鎌倉からの圧力に負け、義経を襲撃します。その義経終焉の地が「衣河館」という場所です。正確な場所は不明でしたが、衣川を挟んで中尊寺の対岸で遺跡が発掘されました。ここは「接待館遺跡」といい、かなり大規模な邸宅跡でここが義経の終焉の地と言われています。

 

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日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

義経が逃げた場所は諸説あり、日本全国にたくさんの義経遺跡が残されています。終焉の地は平泉ですが、その後も北に逃げ続け、最期には「チンギスハン」になったという珍説もあります。それほど人々の関心を集める人物だったのでしょうね。

 

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日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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