三浦義村、なぜ合議制の13人に入ってないのか?

07/01/2024


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

三浦義村 鎌倉

 

 

三浦義村みうらよしむら」は相模さがみの国の有力御家人の家に生まれ、鎌倉幕府かまくらばくふでは激しい勢力争いを生き抜いたことで知られている武士です。

 

大活躍する三浦義村

 

幕府内で「北条家に次ぐ」とも言われる三浦義村みうらよしむらでしたが、2代将軍頼家の時に始まった「13人の合議制」には加わっていません。大きな力を持っていたと考えられる義村なのに、何故13人に入ってないのでしょうか。今回の記事で考えてみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三浦義村とは?

何を考えているのかわからない 智謀の士・三浦義村

 

 

三浦義村みうらよしむら」は相模さがみの有力御家人「三浦義澄みうらよしみつ」の嫡男として生まれました。若いころは父と共に平家との戦いに転戦し、父の功績を譲られる形で昇進していきます。鎌倉幕府かまくらばくふが成立し、源頼朝みなもとのよりともが亡くなると幕府内で北条家と有力御家人との権力争いが激しくなります。

 

梶原景時の失脚を目論む三浦義澄と三浦義村

 

 

義村は「梶原景時かじわらかげときの変」では景時を告発するにおいての中心人物となり、「畠山重忠はたけやましげただの乱」でも従軍しています。

 

脳筋だが純粋な心を持つ坂東武者 和田義盛

 

「和田合戦」では決起した親せきの「和田義盛わだ よしもり」に一度は「味方する」と約束するものの、土壇場で裏切り、北条義時ほうじょうよしときに義盛の決起を通報しています。その後は幕府の「宿老」(重鎮)として幕府内で大きな勢力を築くことになったのです。

 

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13人の合議制とは?

十三人の合議制の仕組みを作った北条義時

 

 

「13人の合議制」とは、源頼朝みなもとのよりともの死後の西暦1199年ころに設置されたと言われる鎌倉幕府かまくらばくふの政治運営体制を指します。

 

北条義時、北条時政と対立した源頼家

 

 

これは頼朝の息子の2代将軍頼家が独断専行を行ったため、それを抑えるために有力御家人など13人の協議により政治を行うことにした、と言われています。また、合議制の成立が頼家就任から3か月後であることから、まだ若い頼家を補佐するための体制とも言えます。

 

13人の合議制のメンバー

 

北条時政

 

北条時政ほうじょうときまさ
北条義時ほうじょうよしとき
比企能員ひきよしかず
和田義盛わだよしもり
梶原景時かじわらかげとき
足立遠元あだちとおもと
三浦義澄みうらよしみつ
八田知家はったともいえ
安達盛長あだちもりなが
大江広元おおえひろもと
中原親能なかはらちかよし
二階堂行政にかいどうぎょうせい
三好康信みよしこうしん

 

以上の13人が合議制のメンバーとなります。番号①~②は北条家の中心人物、③~⑨は戦で功績をあげた有力御家人、いわゆる「武官」で、⑩~⑬は公家出身で政務を得意とする文官でした。メンバーを見てみると公務を行う上でバランスが取れたメンバーと言えるのではないでしょうか。

 

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なぜ三浦義村は13人に入ってない?

三浦義澄 鎌倉

 

 

しかし、三浦義村みうらよしむらの名前は見当たりませんね。なぜかと考えてメンバーを見てみると「三浦義澄みうらよしみつ」がいます。彼は義村の父であり、大きな功績をあげていたので、さすがに父と同列にはできなかった、と考えらえます。

 

 

源頼朝が挙兵した際に時政、義時親子も参戦

 

 

北条時政ほうじょうときまさと義時親子は入っていますが、彼らは頼朝から繋がる親戚なので、いわば「別格」と言っても良いでしょう。また、当時の義村は推定30歳くらいで、50歳から60歳代ばかりの合議制のメンバーの中には流石に若すぎて選ばれなかったのではないでしょうか?

 

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その後の合議制

暗殺のようなダーティーな仕事もする梶原景時

 

重鎮で構成された合議制でしたが、その終焉は早いものでした。まずは「梶原景時かじわらかげとき」が「結城朝光(ゆうき ともみつ)」を讒言し、それに反発した三浦義村みうらよしむらら御家人たちが景時を失脚させます。

 

梶原景時の失脚を見届け、安らかに病没する三浦義澄

 

そして合議制成立の翌年には「安達盛長あだちもりなが」、三浦義村みうらよしむらの父「三浦義澄みうらよしみつ」が病気で亡くなってしまいます。これによって13人の合議制は事実上終了してしまい、有力御家人たちと頼家との間の溝は深まり、さらに権力闘争が激化していくことになります。

 

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源頼朝

 

 

13人の合議制の後身「評定衆」とは?

軍議

 

「13人の合議制」は終了しますが、1225年に「評定衆」という制度が始まります。これは源氏将軍の血が途絶え、朝廷から権力基盤が弱い「藤原頼経(ふじわら の よりつね)」が将軍として迎えられた際に有力御家人によって政治を円滑に行うために設置された制度でした。「御家人たちの合議」という事になっていますが、そのトップは北条家が世襲し、将軍は決定事項にサインするだけでした。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

評定衆に参加した三浦義村

多くのライバルを陰謀で葬った三浦義村

 

三浦義村みうらよしむらは北条家と御家人たちの争いの中でもうまく生き残り、鎌倉幕府かまくらばくふ内で「宿老」(重鎮)として権力を持っていました。そんな義村は13人の合議制には入っていなかったのですが、「評定衆」には選ばれ、席次はかなり上位だったと言います。

 

脳卒中で急死した71歳の三浦義村

また、将軍藤原頼経の信頼が厚く、将軍が軍を率いて上洛する際には先陣を務めています。三浦義村みうらよしむらは1239年に病気で亡くなっています。

 

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北条義時

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

三浦義村みうらよしむらは13人の合議制には入りませんでしたが、のちに評定衆となって幕府の政治を担当しました。

 

すぐに女性を口説こうとする三浦義村 修正a

 

13人の中にも権力争いで命を落としたものがいる中で、長生きしたのは珍しいと言ってもいいかもしれませんね。彼はきっと「世渡り」がうまい人物だったのでしょうね。

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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