「三浦義村」は相模の国の有力御家人の家に生まれ、鎌倉幕府では激しい勢力争いを生き抜いたことで知られている武士です。
幕府内で「北条家に次ぐ」とも言われる三浦義村でしたが、2代将軍頼家の時に始まった「13人の合議制」には加わっていません。大きな力を持っていたと考えられる義村なのに、何故13人に入ってないのでしょうか。今回の記事で考えてみましょう。
三浦義村とは?
「三浦義村」は相模の有力御家人「三浦義澄」の嫡男として生まれました。若いころは父と共に平家との戦いに転戦し、父の功績を譲られる形で昇進していきます。鎌倉幕府が成立し、源頼朝が亡くなると幕府内で北条家と有力御家人との権力争いが激しくなります。
義村は「梶原景時の変」では景時を告発するにおいての中心人物となり、「畠山重忠の乱」でも従軍しています。
「和田合戦」では決起した親せきの「和田義盛」に一度は「味方する」と約束するものの、土壇場で裏切り、北条義時に義盛の決起を通報しています。その後は幕府の「宿老」(重鎮)として幕府内で大きな勢力を築くことになったのです。
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13人の合議制とは?
「13人の合議制」とは、源頼朝の死後の西暦1199年ころに設置されたと言われる鎌倉幕府の政治運営体制を指します。
これは頼朝の息子の2代将軍頼家が独断専行を行ったため、それを抑えるために有力御家人など13人の協議により政治を行うことにした、と言われています。また、合議制の成立が頼家就任から3か月後であることから、まだ若い頼家を補佐するための体制とも言えます。
13人の合議制のメンバー
北条時政
北条義時
比企能員
和田義盛
梶原景時
足立遠元
三浦義澄
八田知家
安達盛長
大江広元
中原親能
二階堂行政
三好康信
以上の13人が合議制のメンバーとなります。番号①~②は北条家の中心人物、③~⑨は戦で功績をあげた有力御家人、いわゆる「武官」で、⑩~⑬は公家出身で政務を得意とする文官でした。メンバーを見てみると公務を行う上でバランスが取れたメンバーと言えるのではないでしょうか。
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なぜ三浦義村は13人に入ってない?
しかし、三浦義村の名前は見当たりませんね。なぜかと考えてメンバーを見てみると「三浦義澄」がいます。彼は義村の父であり、大きな功績をあげていたので、さすがに父と同列にはできなかった、と考えらえます。
北条時政と義時親子は入っていますが、彼らは頼朝から繋がる親戚なので、いわば「別格」と言っても良いでしょう。また、当時の義村は推定30歳くらいで、50歳から60歳代ばかりの合議制のメンバーの中には流石に若すぎて選ばれなかったのではないでしょうか?
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その後の合議制
重鎮で構成された合議制でしたが、その終焉は早いものでした。まずは「梶原景時」が「結城朝光」を讒言し、それに反発した三浦義村ら御家人たちが景時を失脚させます。
そして合議制成立の翌年には「安達盛長」、三浦義村の父「三浦義澄」が病気で亡くなってしまいます。これによって13人の合議制は事実上終了してしまい、有力御家人たちと頼家との間の溝は深まり、さらに権力闘争が激化していくことになります。
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13人の合議制の後身「評定衆」とは?
「13人の合議制」は終了しますが、1225年に「評定衆」という制度が始まります。これは源氏将軍の血が途絶え、朝廷から権力基盤が弱い「藤原頼経」が将軍として迎えられた際に有力御家人によって政治を円滑に行うために設置された制度でした。「御家人たちの合議」という事になっていますが、そのトップは北条家が世襲し、将軍は決定事項にサインするだけでした。
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評定衆に参加した三浦義村
三浦義村は北条家と御家人たちの争いの中でもうまく生き残り、鎌倉幕府内で「宿老」(重鎮)として権力を持っていました。そんな義村は13人の合議制には入っていなかったのですが、「評定衆」には選ばれ、席次はかなり上位だったと言います。
また、将軍藤原頼経の信頼が厚く、将軍が軍を率いて上洛する際には先陣を務めています。三浦義村は1239年に病気で亡くなっています。
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日本史ライターみうらの独り言
三浦義村は13人の合議制には入りませんでしたが、のちに評定衆となって幕府の政治を担当しました。
13人の中にも権力争いで命を落としたものがいる中で、長生きしたのは珍しいと言ってもいいかもしれませんね。彼はきっと「世渡り」がうまい人物だったのでしょうね。
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