明治時代

網走刑務所とは?道路を切り開く為に開設された強制労働の本拠地

網走刑務所 wikipedia

網走刑務所 / wikipedia

 

 

ある程度、年長の読者の皆さんには、網走刑務所(あばしりけいむしょ)高倉健(たかくらけん)のイメージが染みついているのではないでしょうか?

 

北海道にある監獄というだけで過酷な感じですし、寒さと生真面目で不器用な高倉健というベストな組み合わせを超えるのは、北の国からの、黒板五郎(くろいたごろう)田中邦衛(たなかくにえ)以外にはいないと思います。

 

このように映画で有名な網走刑務所ですが、ここには少しも笑えない人権無視の壮絶な歴史が存在していました。

 

北海道開拓を目指すも開拓民が集まらない

徴兵から逃れをようと国外に逃亡を試みる日本人兵

 

明治維新後の日本は、ようやく近代化への道を歩き始めたとはいえ、それは富国強兵(ふこくきょうへい)が大前提で福祉や人権配慮は後回しにされました。

 

その富国強兵の為に、明治政府が重視したのは当時、蝦夷地(えぞち)から改称されたばかりの北海道の開拓です。明治政府は北海道への入植を進めましたが、驚異的な寒さと原生林に覆われた北海道開拓は思ったように人間が集まりませんでした。

 

凶悪犯を北海道に集め強制労働に従事させる

東京五輪でテロ対策をしている警察や警察犬 いだてん

 

一方で明治日本では、征韓論(せいかんろん)に端を発した西南戦争により国事犯が続出し、以後の自由民権運動もあり、思想犯も含めて明治18年には、89000人という大勢の囚人が発生します。これにより、全国の刑務所が飽和状態(ほうわじょうたい)になりました。

 

そこで、明治政府は方針を転換、明治14年(1881年)に監獄則(かんごくそく)を改正し、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監(しゅうちかん)を北海道に設置し全国の凶悪犯を北海道に集め、開拓の労働力として使役する政策を取りはじめます。

 

当時の囚人には人権などなく、江戸時代さながらの扱いであり、前科者(ぜんかもの)という響きは親戚縁者から縁を切られるようなマイナスな存在でした。それに加えて凶悪囚人となれば、北海道で労働力として酷使して最悪死んでも、騒ぎにはなるまいという打算があったのです。

 

すでに江戸時代中期からは、佐渡金銀山の人夫として囚人を使う事が行われており、明治政府もそれを踏襲したという事かも知れません。

 

【スポーツと共に歩んだ日本近代史】
いだてん

 

1890年道路開削の為に網走刑務所が開設

 

明治23年(1890年)中央道路の開削工事を行う為に釧路集治監から網走に囚人を大移動させて網走刑務所が開設されます。当時の北海道の防衛は屯田兵が担っていましたが、北海道は見渡す限りの原野で軍隊が通過するような整備された道はありません。

 

道がないなら当然、宿舎や商店のような軍隊が駐屯する施設もないわけで、早急に整備された道路を切り開く必要がありました。そこで、屯田兵が通る中央道路の建設の為に、囚人が駆り出される事になったのです。当初の網走刑務所の収容人数は1392人で、その3割以上が無期懲役、それ以外も刑期12年以上の重罪人でした。

 

あまりにも惨い囚人の扱い

 

この中央道路の開削(かいさく)工事は、1891年の僅か1年間で網走から北見峠まで160㎞を開通させる過酷なもので、囚人は逃げないように二列に並ばされ、全員が鎖でつながれました。工事は毎日、千人態勢で行われますが、工事が進むと補給が続かなくなり劣悪な労働条件と怪我、栄養失調で倒れる囚人が続出します。

 

あまりの苦役に耐えかねて、看守に抵抗した囚人はそのまま斬殺されました。こうして死んだ囚人は、鎖を取り外され、その場に埋められて盛り土をし、その上に目印として鎖を置いたのだそうです。

 

「北海道の原生林を切り開くのを民間事業者に依頼すれば工賃が高くなる、しかし囚人を使えば工賃は半分で済むし、強制的に働かせる事が出来る。それで死んでも収容人数が減り、税金が浮く一石二鳥ではないか」

 

このような政府要人の差別的思想の下で北海道の囚人は酷使され、中央道路の開削では、200名以上の囚人と看守の犠牲者が出たのです。道路開削以外でも、囚人は硫黄採掘や鉱山労働で酷使され死者が続出しました。

 

囚人の労働により強制労働は消滅する

幕末 帝国議会

 

しかし、政府に取っての北海道の囚人労働は次第にメリットが薄くなっていきました。皮肉にも、囚人たちの命懸けの労働で道路が拡充された結果、急速に原野は消滅して人家が増加していき、本州からの民間人労働者が流入するようになった結果、囚人労働は、民業圧迫だと批判されだしたのです。

 

さらに、第4代北海道庁長官の北垣国道(きたがきくにみち)は、1893年(明治26年)3月に出した「北海道開拓意見具申書」の中で、以前は逃亡しても死ぬしかなかった脱獄囚も、民家が増えた事で、そこを襲って容易に生き延びられるようになり、地域社会はヒグマやオオカミより脱獄囚に恐怖感を抱いていると指摘します。

 

こうして、北海道の囚人労働が注目されるようになると、人権無視の過酷な囚人労働の実態が明るみに出るようになり「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか?」と野党が国会で追及するようになり、明治27年(1894年)に囚人の強制労働は廃止されます。

 

以後は大規模な道路工事のような労働はなく、農耕と内役が囚人労働の中心となりました。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

囚人に人権を認めず、どんなに過酷な労働を強制しても少しも良心が痛まない。あるいはその疚しさから免れる為に、富国強兵を隠れ蓑にし囚人の犠牲を国家に尽くして亡くなった尊い犠牲にすりかえて美化してしまう。

 

網走刑務所の悲劇は決して終わった過去の事ではなく、その後の歴史でも差別や迫害の根拠として繰り返し出現してきた事ですし、現代でも世界から消えたとは言えません。

 

男でも女でも若くても老人でも、前科があってもなくても、目の色や肌の色が違っても、人間として平等に尊重されなくてはいけない。この事を網走刑務所の悲劇は伝えてくれています。

 

参考:Wikipedia

参考文献:博物館網走監獄

 

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