坂本龍馬は歴史上の人物の中でかなり有名で人気も高く、歴史ドラマでも度々登場するほどです。また、「尊敬する偉人」ランキングでも1.2を争うほど。
ですが、坂本龍馬は明治維新前、暗殺により31歳の若さでこの世を去ります。龍馬の死後、150年程経った今でも誰が襲ったのかは諸説あり、未だに解明されていません。今回はそんな坂本龍馬の暗殺の経緯と諸説を紹介していきます。
坂本龍馬暗殺の近江屋事件概略
坂本龍馬が暗殺されるという噂は以前から流れていて、1866年3月9日にも薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩藩士として寺田屋に宿泊していたところを、上総請西藩の第2代藩主である林忠交が捕縛しようする寺田屋事件が起きます。
龍馬は高杉晋作から譲り受けた拳銃で、長州の三吉慎蔵とともに応戦。捕まり方2名を射殺し、数名を殺傷し、難を逃れました。しかしこの時、龍馬は防戦する過程で左右の親指を負傷しますが、三吉慎蔵、お龍らとともに辛くも逃げ切ることに成功しました。
その後は近江屋へ移りました。近江屋は醤油商として土佐藩の御用を務めていて、その屋敷は、土佐藩志士の基地の役割を果たしていました。
坂本龍馬暗殺所説
坂本龍馬暗殺の犯人は未だ解明されておりませんが、現在いくつかの説があるのでご紹介します。
京都見廻組説
現在は京都見廻組による犯行が有力とされています。寺田屋事件の際に龍馬が同心二名を射殺したことが原因と言われています。
佐々木只三郎の指示により、京都見廻組隊士である佐々木、今井、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之介、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人が近江屋に向かい、佐々木、渡辺、高橋、桂らが実行犯となって殺害したとされています。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測しています。
新選組犯行説
現在では新選組犯行説は支持されていないが、鞘など現場に残されていた物や伊藤甲子太郎の同志らの証言から新選組の原田左之助が犯人だという説。襲撃を受けた中岡慎太郎自身も「之はとうしても人を散々斬つて居る新選組の者だろう」と推測しています。土佐藩重役である寺村左膳も当日の日記に「多分、新選組等の業なるべしとの報知也」と記しています。
紀州藩士報復説
紀州藩、ないし紀州藩士による報復行動だとする説です。海援隊隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)らは、海援隊と紀州藩との間に起った「いろは丸事件」の恨みで、犯人は紀州藩ではないかと睨んでいます。現場に残されていた鞘など紀州藩士が良く使っていたことからもこの説が上がっています。
薩摩藩陰謀説
西郷隆盛・大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする説です。越前国福井藩16代藩主である松平春嶽、土佐藩士である福岡孝弟らが薩摩藩の犯行だと睨んでいました。その頃坂本龍馬は幕府に対する態度を軟化しており、諸侯会議による新政府の設立に動いていたとも言われています。
それを見過ごせなくなった武力倒幕派の西郷隆盛・大久保利通らが、故意に幕府側に龍馬の居場所を漏らしたと言われています。しかし、この説も有力ではなく、あまり支持されていません。なお「改定肥後藩国事史料」巻七には、「坂本を害し候も薩人なるべく候こと」と、薩摩藩の関与を匂わせる文が記されています。
坂本龍馬の最期
坂本龍馬はどのような最後を迎えたのでしょうか。暗殺される当日は近江屋を経営していた「井口新助」宅の母屋二階にいました。龍馬は腹が減ったと言い出し、「峰吉」にしゃもの肉を買いに行かせました。その時、岡本健三郎も用事があったため、同行。峰吉が近江屋に戻ったのが、午後9時頃とされています。
その1時間前に「十津川郷士」と名乗る男たち数人が龍馬に面会を求めてきます。面会を通し、そのまま二階に上がり、襲撃。龍馬と中岡は武器を持っておらず、龍馬は額を深く斬られ、他数か所を斬られて殺害されました。
近江屋主人である井口新助が気づいたころには龍馬は既に亡くなっていました。藤吉と中岡は傷の手当は受けたものの、帰らぬ人となってしまいました。11月18日、海援隊、陸援隊により、龍馬、中岡、藤吉の葬儀が行われました。
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