NHK大河ドラマ「光る君へ」において高畑充希さんが演じているのが藤原定子です。ドラマ同様に史実の定子も一条天皇とは仲睦まじく、権力の頂点を目指す藤原道長にとっては、目の上のコブになる存在です。そんな定子ですが父、道隆の死後に始まった中関白家の没落に巻き込まれ、一条天皇との間に男子を儲けながら、若くして死んでしまう悲劇の生涯を送る事になるのです。
この記事の目次
藤原定子の基本情報
藤原定子は、貞元元年(976年)関白内大臣、藤原道隆の長女として誕生しました。生母は式部大輔高階成忠の娘、高階貴子で兄弟には内大臣、藤原伊周や権中納言、藤原隆家がいます。15歳で4歳年下の一条天皇に入内しますが、父、道隆の強引な手法で律令が定めた三后を超えて四后となってしまったために、前例違反として世間の顰蹙をかいます。
さらに、長徳元年(995年)父の道隆は糖尿病で急死、後継者の伊周は21歳と若く、叔父の藤原道長との権力闘争に敗れた上に、愛人を花山法皇に取られたと勘違いして、法皇に矢を射かける「長徳の変」を引き起こし左遷されます。定子は事件にショックを受けて出家しますが、一条天皇の寵愛は深く、左遷した伊周をまもなく都に呼び戻し、出家した定子に再び中宮の地位を与えました。しかし、一度仏門に入った女性が天皇と関係を持つのは、非常に風聞が悪く、定子と実家の中関白家の評判は地に落ちました。
そんな中、長保元年(999年)定子は待望の男子、敦康親王を産み、一条天皇は喜びますが、長保三年(1001年)に次女媄子内親王を産んだ直後に25歳の若さで病死しました。藤原定子は権力の絶頂期にあった中関白家に誕生し、一条天皇の男子を産む幸運に恵まれたものの、中関白家の没落と共に人生を終える悲劇のヒロインとして多くの文芸作品の題材となっています。
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出自と家系
藤原定子は貞元元年(976年)関白内大臣、藤原道隆の長女として誕生しました。道隆は父の藤原兼家から藤原氏長者の地位と関白を譲られたエリートであり、弟である道兼や道長に先んじる立場にあり、一条天皇の外戚として権力を振るい、息子である藤原伊周や藤原隆家を異例の速さで高位に引き上げるなど、我が世の春を謳歌していました。そんな道隆の望みは甥にあたる一条天皇に定子を入内させ、男子を産ませ、その子を次の天皇にする事でした。定子の肩には中関白家の将来が掛っていたのです。
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一条天皇と藤原定子はいとこ同士?
一条天皇の生母、藤原詮子は藤原定子の父である道隆の妹にあたるので、一条天皇と定子はいとこ同士という事になります。平安中期は兄弟婚こそ忌避されましたが、従兄弟婚は普通にありました。そもそも摂関政治自体が、いかに天皇と血縁が近いかに正当性を頼っていたので、血縁が遠くては意味がありませんでした。
一条天皇との結婚と子供
藤原定子は正暦元年(990年)14歳で一条天皇に入内します。長徳2年(997年)22歳で第一子、脩子内親王を出産しました。初産まで7年かかっていますが、一条天皇と定子の関係は仲睦まじいものでした。脩子内親王を出産した翌年、定子の兄である藤原伊周が長徳の変を引き起こし失脚し九州へ左遷されます。
定子も衝撃を受けて出家しますが、一条天皇は、誕生した脩子内親王の顔が見たいとして定子を呼び戻して中宮にしました。しかし出家して仏門に入った女性と天皇が関係を持つのは、非常にハレンチな行為とされたので、一条天皇と定子の密会は、世間に非難される事になります。そんな中、長保元年(999年)定子は待望の男子、敦康親王を産み、長保三年(1001年)に次女媄子内親王を産みますが、直後に病死しました。
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夫婦のエピソードと相互影響
一条天皇は教養ある常識人であり、定子とは常に冗談を言い合い、和歌や漢詩を贈り合う風流な生活を楽しんでいましたが、定子への愛情には他を寄せ付けない激しいものがあり、出家した定子を周囲の反対を押し切って中宮の地位に戻し、人目を忍んでも連日、定子に会いに行くなど、情熱的な面を見せています。定子も、そんな天皇の愛情があったからこそ、破廉恥だと謗られても天皇との愛を貫いたのでしょう。一条天皇は定子が崩御した後も蔵人頭で天皇と同じく一人っ子だった藤原行成に、定子を失った哀しさを切々と語っています。
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中宮彰子と藤原定子の関係
中宮彰子と藤原定子の関係は従姉妹同士です。彰子の父の藤原道長は定子の父である藤原道隆の弟にあたっています。また一条天皇の生母、藤原詮子は道隆の妹であり道長の姉なので、彰子と定子と一条天皇はいとこ同士という事になります。彰子と定子は、それぞれの家の命運を背負い、一条天皇の寵愛を得ようとするライバルでしたが、定子は25歳で亡くなり、長男である敦康親王の養育を彰子が引き受けた事もあり、ライバルというだけではない特別な関係でした。
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子供達との関係
藤原定子は一男二女に恵まれましたが、3人の子が小さいうちに25歳で亡くなりました。長女である脩子内親王は一条天皇の意向で宮中で育ち、一条天皇の崩御後は道長や彰子の不興を買うのを承知の上で叔父である藤原隆家の屋敷に移っています。短命が多い定子の子供たちの中で脩子内親王は例外的に52歳まで生き、永承四年(1049年)に亡くなりました。長男の敦康親王は中宮彰子に引き取られ育ちますが20歳で亡くなりました。脩子内親王はその事を知ると非常に長き悲しんだそうです。次女である媄子内親王は、定子の妹にあたる御匣殿のもとで養育されますが、間もなく御匣殿も亡くなったので一条天皇の生母である藤原詮子の養女となりますが僅か8歳で亡くなっています。
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清少納言との親密な関係
清少納言は正暦四年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えていたようです。彼女は、学者清原元輔の娘で博学で気が強く、定子は清少納言を気に入り、一条院内裏の北に仕切りをした小部屋を与えられています。枕草子は清少納言が中宮定子に仕えた7年間に起きた出来事を美しく描いた随筆です。清少納言は長保2年(1000年)に中宮定子が二女媄子内親王を出産した直後に死去した事を契機に宮中を去りました。
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藤原定子の性格とエピソード
藤原定子は栄花物語の一条天皇の評価によれば、思慮分別があり、しみじみと情深い点において彼女に勝る人がいるだろうかと激賞しています。清少納言の枕草子でも定子の性格の良さを語る逸話は多く、和歌が苦手とする清少納言の気持を慮って和歌の無理強いをしなくなったり、愛人と会っていたと嘘のスキャンダルを流された清少納言を心配して、慰める絵手紙を出したりし、とても気配りの出来る女性として描かれています。一条天皇を巡ってはライバル関係である彰子とも関係は良好であったとも言われ、それらが事実なら定子は、かなり善い人という事になるでしょう。
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晩年と出家の理由
藤原定子が出家した理由は、長徳の変が原因です。長徳の変は、定子の兄である藤原伊周が愛人宅に向かった時、愛人宅に別の貴族の牛車が停まっているのを見て愛人が別の男に寝取られたと勘違いした事件です。伊周が事態を弟の隆家に相談すると、隆家は激怒して郎党を率いて牛車の持ち主に矢を射かけました。ところが、牛車の持ち主は花山法皇だった事が後に発覚。上皇に弓を引いた隆家と伊周の行動が朝廷で大問題となりました。定子は二条院に伊周と隆家を匿いますが、一条天皇は検非違使を派遣して2人を逮捕します。定子はこの不祥事に衝撃を受け、自ら髪を切って出家し中宮の地位を去っていました。
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定子の死因と遺された影響
藤原定子の死因には胎盤癒着による大量出血が考えられています。それというのも定子は、第一子、第二子とも安産で、それほど苦しんでいない様子ですが、次女の媄子内親王を出産した時には、胎盤が体内から出て来ない事が記録され、出血多量によって死んだのかも知れません。または、妊娠高血圧症候群により産後に脳の血管が切れてしまい脳出血で死んだ可能性も考えられるようです。
もし、定子が死んでいなければ、彼女は兄の伊周や弟の隆家と連携して中関白家の影響力を保存し、一条天皇も定子や中関白家の後ろ盾を得て、道長の圧力に屈せず敦康親王を次の皇太子に出来たかも知れません。元々一条天皇は、伊周や隆家とは兄弟同然に育った間柄であり、道長よりは伊周が政治を補佐してくれることを望んでいる節があるからです。しかし定子の死によって、それらは叶わなくなり中関白家は決定的に没落していきました。
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まとめ
藤原定子は、祖父藤原兼家の権力を順当に継承した、父、道隆の下で一条天皇に入内して将来の天皇を産むべく義務付けられました。一条天皇とはいとこ同士であり、幼い頃は自身の屋敷で遊んだ間柄なので、中関白家の未来は明るいと思われましたが、強引な人事で反感を買った道隆が急死した事や兄弟である伊周や隆家の不祥事で運命は暗転します。出家し髪を下ろした定子ですが、天皇の寵愛は止まず、仏門に入ったまま天皇と関係を持つ事になり、それが世間の顰蹙を買いました。一男二女を産んだ定子は次女を産んだ翌日に25歳の若さで死んでしまいますが、彼女に仕えた清少納言は光り輝いていた定子との日々を枕草子に書き記し、哀しくも美しい定子の生涯は千年後の日本でも語り継がれる事になったのです。