NHK大河ドラマ「光る君へ」で、見上愛さんが演じるのが藤原彰子です。権力者、藤原道長の長女であり、天皇への入内が運命づけられた彰子は、12歳の若さで一条天皇からの寵愛を勝ち取る熾烈な戦いに身を投じ、10年もの間、懐妊しない苦難に遭遇しますが、芯が強く優しい性格で天皇の寵愛を勝ち取り、2人の天皇の母となって藤原摂関政治の全盛期を支える事になりました。
この記事の目次
藤原彰子の基本情報
藤原彰子は西暦988年、平安中期の高級貴族である藤原道長と源倫子の長女として土御門邸で誕生しました。西暦999年、彰子は僅か12歳で一条天皇に入内しますが、この段階で天皇は19歳で中宮の藤原定子以外にも3人の妻がいる状態で彰子のスタートは厳しいものでした。しかし、最大のライバルだった中宮定子は弟の藤原隆家が引き起こした長徳の変に衝撃を受けて出家。その後、定子は敦康親王を産みますが、間もなく病死します。定子以外の2人の妻は、それぞれ一条天皇の寵愛が薄く遠ざけられるようになり、彰子の存在感が強まりますが、彰子は中々懐妊せず、定子の産んだ敦康親王を養育している状況でした。
結婚から10年目の1008年、22歳になった彰子は懐妊。難産の末に一条天皇の第二皇子、敦成親王を産み、翌年には第三皇子、敦良親王も誕生します。こうして一条天皇の妃として不動の地位を築いた彰子は、後宮の文化面にも力を入れ、源氏物語の紫式部や和泉式部、赤染衛門などの才女を揃え、平安中期の文化サロンを形成していきました。一条天皇が崩御し、三条天皇を経て、実子の敦成親王が後一条天皇として即位すると彰子は国母として敬われ、父である道長の死後には、弟の藤原頼通、教通等を主導して摂関政治を守るために尽力しました。
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藤原彰子の家族関係と系譜
藤原彰子の父は、平安中期に藤原摂関家の全盛期を築いた藤原道長です。母は宇多天皇の曾孫にあたる源倫子でした。彰子の弟妹には、道長の摂関政治を引き継いだ藤原頼通や教通、三条天皇の妃になった藤原姸子や後一条天皇の妃になった藤原威子、後朱雀天皇の妃になった藤原嬉子がいます。また、彰子は一条天皇との間に、後一条天皇と後朱雀天皇を産んでいます。
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入内と中宮への昇格
藤原彰子は西暦999年に12歳で一条天皇に入内しました。しかし、すでに一条天皇には道長の兄、藤原道隆が入内させた中宮定子がいて、長徳の変の影響で出家したとはいえ敦康親王も誕生していました。そこで道長は、まず彰子の地位を定子と同じ地位にしようと画策し、天皇の側近であった藤原行成に働きかけて、西暦1000年に中宮に昇格しています。この頃、定子は存命していたので、史上唯一、一人の帝に二人の皇后がいるという異常事態が起きていた事になります。それだけ道長の権力への執着はすさまじかったのです。
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藤原彰子の教育と文化的背景
藤原彰子は、高級貴族である藤原道長の長女として誕生し、将来的に天皇に入内する事を運命づけられていました。しかし、当時の天皇は多くの高級貴族から娘を入内させていて、それらの娘達の中から天皇の寵愛を受けるのは至難の業でした。そこで容姿以外に文化的な教養が重要視され、和歌や漢詩、舞や弦楽など、天皇の気を引き、知的な姫だと思わせるために絶大な努力が払われたのです。さらに入内後も、これらの文化的な素養を増す為に、紫式部や清少納言、赤染衛門のような才女が女房として送り込まれ、家庭教師の役割を担ったので平安中期の後宮は、当時の最高水準の文化サロンになっていきました。
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藤原彰子の宮廷での生活
藤原彰子が一条天皇に入内した頃、父の藤原道長は甥の藤原伊周との権力争いに勝利していました。道長はその権力を誇示し、間接的に一条天皇に対し彰子を寵愛したほうが天皇にとってもメリットがあると知らせる為に、後宮を一流の美術品で飾り、紫式部や赤染衛門、和泉式部のような才女を女房として送り込み、彰子にまつわるイベントごとでは、高級貴族を総動員させるなど全力を尽くしたので、彰子の宮廷生活は終始、華やかなものとなりました。
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藤原彰子と一条天皇の関係
藤原彰子と一条天皇の関係は、2人の親王が誕生した関係もあり、仲睦まじかったようです。すでに一条天皇には中宮定子との間に敦康親王が誕生していましたが、定子は親王を出産して間もなく死に、彰子は継母として敦康親王を養育していました。一条天皇は定子を深く愛していましたが、その定子の遺児を熱心に養育する彰子を見て、次第に愛おしく思うようになったようです。彰子も一条天皇を深く愛し、一条天皇が危篤に陥り臨終する時まで一緒にいました。当時、死は最大の穢れとして恐れられ危篤の病人の近くには、誰もいないのが当たり前でしたが彰子はその慣例を破ってまで天皇を看取ったのです。
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彰子と一条天皇の年齢差
一条天皇は西暦980年生まれで、彰子は988年生まれであり、8歳の年齢差がありました。つまり、彰子が12歳の時点で一条天皇は20歳で、すでに3人の妻を持っていて、彰子は、かなり不利なスタートを切る事になりました。
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藤原彰子に仕えた女房は?
藤原彰子に仕えた女房には、源氏物語の作者として有名な紫式部や娘の大弐三位、歌人の和泉式部、栄花物語正編の著者である赤染衛門、栄花物語副編の著者出羽弁、伊勢大輔などがいます。
藤原彰子と紫式部の関係は?
藤原彰子と紫式部の関係は主従関係です。紫式部は才女として有名だったので藤原道長に頼まれて中宮になっていた彰子の女房として宮中に仕えていました。主従関係ではありますが、道長としては紫式部に彰子の足りない部分を補うように命じていたので、彰子と紫式部の関係は家庭教師と生徒でもあります。
藤原彰子の人格と性格
藤原彰子は、権力者である藤原道長の長女として大事に育てられたので、優しく慎み深い性格だったようです。彰子が一条天皇に入内した時、ライバルとして道長の兄、中関白家の藤原道隆の娘として入内していた中宮定子がいましたが、彰子は中関白家にも挨拶と贈物を欠かす事が無かったと言われています。また、彰子は敦康親王の養育を通して、一条天皇がどれだけ中宮定子を愛していたかを知っていて、父、道長が病気になった一条天皇に譲位を迫ったり、敦康親王を皇太子から排除しようとした時には、その非情な措置に誰よりも怒ったと言われています。
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藤原彰子の人物像と影響力
藤原彰子は、優しく慎み深い性格でしたが、筋を通す厳しい面もあり、特に二人の天皇の母として国母と敬われる地位になると、政治にも強い影響力を示し、藤原摂関家の政治が永続するように不断の努力をしました。例えば、弟の関白頼通が、父、道長の遺言を破り、息子に関白の地位を譲ろうとして了解を求めると彰子は不快感を露わにし「父の遺言を守り弟の教通に譲りなさい」と厳しく指摘して断念させています。これは関白の地位を争い、勢力を減少させた父や祖父の時代の権力闘争を繰り返さないためでした。弟の関白、教通は、彰子の措置に深く感謝し、彰子が死去した後、穢れを無視してまで彰子の柩に付き従い見送りました。
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彰子は長生きしたの?
彰子は永延二年(西暦988年)に誕生し、承保元年(1074年)に87歳で亡くなっています。30代で死ぬ事も珍しくなかった平安中期に87歳まで生きた彰子は長生きと言えるでしょう。また、彰子は長生きであるだけではなく、二人の天皇の生母となり、父、藤原道長が築いた摂関政治を弟達と協力して守りぬく事に尽力しました。彰子は摂関政治のラスボスのような存在でしたが末の妹の嬉子が後の後冷泉天皇を産んで以降、道長の家系の娘が天皇に入内しても男子が誕生する事はなく、彰子の死後、摂関政治は終焉を迎える事になりました。
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藤原彰子を描いた文学作品
藤原彰子については、紫式部日記に肌が透き通るように美しく、髪もふさふさとして艶があると記録されています。また、彰子の波乱の生涯は、現在も多くの作品に描かれ、小説では、少年陰陽師や月と日の后、映画では東映の千年の恋 ひかる源氏物語、東宝の源氏物語千年の謎、テレビドラマではCBCテレビで女人連祷、漫画では、ねこねこ日本史や神作家、紫式部のありえない日々等があります。
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藤原彰子の墓はどこにある?
藤原彰子は死後、東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所の中で宇治陵に埋葬されています。但し宇治陵とは、一つの陵ではなく、地蔵山及びその北側浄妙寺山の南北約1.8キロ、東西0.9キロ総面積89.332平方メートル四方に点在する大小320もの陵墓群の事です。宇治陵には、藤原冬嗣、基経、時平、道長、頼通などの摂政・関白経験者や、藤原氏から天皇に入内した女性たちが眠っていますが、当時の日本では故人を埋葬した後に、定期的な儀式を行う習慣はなく、歳月が過ぎて関係者が鬼籍に入ると、誰がどこに埋葬されたのか分からないのが通例で、彰子の墳墓の位置も厳密には分かっていません。
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まとめ
藤原彰子は、父、藤原道長が権力を握る駒として、12歳で権謀渦巻く後宮に入ります。彰子が嫁いだ一条天皇にはすでに3人の妻がいて、特に彰子にとっては伯母にあたる定子は天皇の寵愛を受けていました。しかし彰子は心折れる事なく、忍耐と優しさと愛情をもって天皇や定子に接し、定子の死後には遺児となった敦康親王を養育。その慈愛が天皇の心を動かし結婚十年目にして、2人の親王に恵まれました。2人の親王はそれぞれ、後一条天皇と後朱雀天皇として即位し彰子は国母として、父、道長が残した摂関政治を維持し、弟達を導く存在になったのです。