北条時行は、鎌倉幕府を復活させるために立ち上がった若き武将です。父の無念を晴らすため、激動の時代に挑んだ彼の生き様は、まさに「逆転劇」の始まりでした。
今回は、二十四年の人生の中で三度も先祖の拠点である鎌倉を奪い返した時行の生涯を解説します。
この記事の目次
- 北条時行とはどんな人物か
- 生い立ちと北条氏の系譜
- 鎌倉幕府滅亡と北条氏の運命
- 中先代の乱とは?
- 中先代の乱の背景と原因
- 鎌倉奪還の過程
- 北条時行の功績と影響
- 「逃げ上手の若君」としての評価
- 「逃げ上手」と呼ばれる理由
- マンガ「逃げ上手の若君」との関係
- 北条時行の最後とその後
- 処刑とその後の伝説
- 生存説と潜伏説
- 子孫と末裔の伝承
- 北条時行に関連する作品
- 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」との関係
- 漫画や小説で描かれる北条時行
- 歴史的評価と現代の認識
- 現代における北条時行の再評価
- 北条氏の末裔は誰ですか?
- 北条時行の子孫は誰ですか?
- 北条時行は中先代の乱の時何歳でしたか?
- 北条時行の乱を平定したのは誰ですか?
- 北条時行のその後は?
- 北条時行は何歳まで生きた?
- 北条時行はどうやって死んだの?
- 鎌倉ライターkawauso編集長の独り言
北条時行とはどんな人物か
北条時行は1329年頃、鎌倉幕府の14代執権、北条高時の次男として誕生します。4歳の時に新田義貞の攻撃で鎌倉幕府が滅亡。
父を含む多くの一族郎党を失いますが逃げのび、6歳の時に5万の軍勢を率いて鎌倉を奪還する中先代の乱を起こしました。しかし時行の鎌倉奪還は僅か二十日に過ぎず、巻き返した足利尊氏に敗れて鎌倉を脱出します。その後も時行は北畠顕家や新田義興のような南朝方の武将と協力し24歳で捕らえられ斬首されるまで、三度に渡り鎌倉を奪い返したとされています。
生い立ちと北条氏の系譜
北条時行は執権北条氏の中でも得宗家と呼ばれる名門の出身です。
得宗とは鎌倉幕府の初代執権である北条時政の子で二代執権の北条義時の直系子孫を意味し泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数えました。時行は9代目得宗である北条高時の子なので、北条氏の中では選りすぐりのエリートです。
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鎌倉幕府滅亡と北条氏の運命
将軍を操り人形として鎌倉幕府の政治を取り仕切ってきた執権北条氏ですが、1333年、後醍醐天皇に味方した御家人、新田義貞の軍勢により鎌倉が攻めこまれ北条一門は東勝寺合戦で敗北。870名もの一門が自害してほぼ族滅しました。
中先代の乱とは?
中先代の乱とは1335年に北条時行を中心に起きた反乱です。時行は建武の新政に不満を持つ勢力や生き残りの北条氏残党を集めて信濃国で諏訪頼重と諏訪時継父子や滋野氏ら諏訪神党などに擁立されて鎌倉に進撃、足利尊氏の弟である足利直義を追い払って鎌倉を奪い返しました。
中先代の乱の背景と原因
中先代の乱の背景には、建武の新政に対する御家人の不満がありました。倒幕の恩賞は実際の功績よりも後醍醐天皇と関係が近いかどうかで判断され、命懸けで幕府を倒した御家人の不満が高まっていたのです。その隙を突いて旧北条氏の残党が蜂起し、天皇ではなく執権北条氏の世の中に戻そうとして起きたのが中先代の乱でした。反乱には元々、後醍醐天皇に味方していた御家人も参加していて、建武の新政に対する失望の深さがうかがえます。
鎌倉奪還の過程
北条時行の軍勢は最初に信濃国守護小笠原貞宗を撃破し上野国攻めこみます。尊氏の弟で、東国を守護する役割だった足利直義は征伐軍を送り込みますが、時行はこれを武蔵国で破り、討伐軍の武将を次々に敗死させました。後がなくなった直義は自ら軍勢を率いて、井出沢で時行を迎え撃ちますが敗北し逃亡します。こうして北条時行は鎌倉に入城し、鎌倉幕府滅亡から二年ぶりに鎌倉を奪い返しました。
北条時行の功績と影響
北条時行が中先代の乱で鎌倉を奪還した期間は僅か二十日に過ぎませんでしたが、この二十日は日本の武家政権の歴史に取って重要な二十日になりました。
弟の直義が敗れた事で足利尊氏は京都から鎌倉に出撃し時行を簡単に撃破しますが、その後も鎌倉に留まり、御家人達に後醍醐天皇の許しもなく恩賞を与える等して独立を強めていき、遂には後醍醐天皇と対決して室町幕府の開府に到るからです。もし、中先代の乱が無ければ尊氏は京都に留まり、後醍醐天皇と敵対する事もなく、日本は武家の時代から天皇と貴族の時代に再び移行していたのかも知れないのです。
「逃げ上手の若君」としての評価
逃げ上手の若君としての評価は北条時行が漫画のキャラクターとして大ヒットするまでは、存在しませんでした。しかし合戦に敗れると一族郎党が諦めてあっさりと自殺してしまう当時の鎌倉武士の価値観から見て、負けても負けても逃げのびて、都合三度も鎌倉を奪還した北条時行は、ひときわ強い個性を放っていると考えられます。
「逃げ上手」と呼ばれる理由
北条時行が「逃げ上手」と呼ばれる理由は、何度も敵に大敗しながら捕らえられたり、自殺したりする事無く、逃げのびながら時勢を読んで味方を集め、都合三回も鎌倉を奪い返した点にあります。勇猛果敢な百戦錬磨の名将は日本史には多いですが、何度も逃げ延びて、その度に巻き返した武将は少なく、そのため時行は逃げ上手と呼ばれます。
マンガ「逃げ上手の若君」との関係
史実の北条時行と漫画逃げ上手の若君の主人公である北条時行との関係は、どちらも逃げる事に重点を置いている事で共通しています。ただし、漫画の北条時行は敵から逃げる事に異常な興奮を覚える変態性の持ち主ですが、史実の時行が逃亡時に興奮を感じたかどうかは定かではありません。また、史実の時行は鎌倉幕府滅亡の時には4歳程度と考えられますが、漫画の時行は8歳程度の男子として描かれています。
北条時行の最後とその後
北条時行は、1352年、鎌倉に侵攻して足利尊氏の子、基氏の軍を破り生涯三度目の鎌倉奪還を果たします。しかし、瞬く間に足利尊氏が巻き返し鎌倉は陥落。時行は再び姿を隠しますが、翌年足利方に捕らえられ鎌倉龍ノ口で処刑されました。二十代半ばだったと考えられています。このとき、時行以外にも北条氏に代々仕えた被官の長崎氏と工藤氏の出身と思われる武将も処刑されていて時行が潜伏中も先祖代々の部下を大切に扱っていた様子が分かります。
処刑とその後の伝説
北条時行は処刑されましたが、民間には時行の生存を願う声も多く、生存説が残っています。それによると時行は足利尊氏の追及を逃れて生き延び、義良親王や北畠親房らと共に伊勢国大湊から陸奥国府へ渡ろうとしたものの、天龍灘で暴風に遭い伊勢国に戻されたそうです。以後、時行は改名して伊勢次郎と名乗り伊勢国に住むようになったとされます。時行の子孫は伊勢で繁栄し、後の小田原北条氏は時行の子、行氏という人物の血を引いているのだそうです。
また、諏訪大社上社の神長官を務めてきた守矢氏に伝わる文書の一部「守矢貞実手記では、1340年、北条時行は、数え12歳の大祝諏訪頼継と共に伊那郡の大徳王寺城で挙兵し信濃国守護の小笠原貞宗と戦ったとされます。時行と頼継は心を一つにして戦い、数十度の防衛に成功しますが、援軍が来ないため落城し、2人は落ち延びたとされます。
生存説と潜伏説
時行を支援した諏訪氏の領地があった長野県の伊那地方には、中先代の乱までに時行が潜伏していたとされる伝承地が言い伝えられていて、高遠町三義の御所平や同じ高遠町藤澤御堂垣外の権殿屋敷かくれ久保、また、伊那富県福地の時行屋敷など複数に上っています。
子孫と末裔の伝承
北条時行の子孫と末裔については、時行が生き延びて伊勢に渡って伊勢次郎と改名して土着し、その末裔が北条早雲であると伝えています。また、愛知県郷土資料刊行会が編纂した「尾陽雑記」では、時行と熱田大宮司家の女の間に生まれた北条時満(あるいは行氏)の子、北条時任が愛知郡横江村に定住し、その孫にあたる横井時永を横井氏(または横江氏)のはじまりとしているようです。幕末に活躍した思想家の横井小楠も時行の子孫を自称していたようです。
北条時行に関連する作品
北条時行に関連する作品としては、時行を主人公とした松井優征氏による週刊少年ジャンプ連載「逃げ上手の若君」があります。こちらは、歴史的な事実をベースにしながらも、時行のキャラクターを魅力的に描き出し、中先代の乱を独自の視点で描き、まだ連載中です。(2024年9月時点)また、漫画家の湯口聖子氏の「夢語りシリーズ 明日菜の恋歌」には、北条時行を題材にした短編が含まれています。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」との関係
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する主人公の北条義時は、北条時行の遠い先祖にあたります。
しかし性格は時行とは正反対で冷酷無比で猜疑心が強く、北条氏の権力を維持するためには、身内も殺し、本来権力を握っていた源氏将軍を操り人形として、その補佐、執権として政治を執り仕切り、伊豆の小豪族だった北条氏を権力の頂点に引き上げました。
また、義時の姉の北条政子も弟の義時と協調し北条氏の権力掌握に尽力しています。
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漫画や小説で描かれる北条時行
漫画や小説で描かれる北条時行は、執筆者の個性や作品中の立ち位置、つまり、主人公であるか脇役であるか、或いは敵役であるかで大きく変化しますが、全体としては史実に準拠し、臨機応変に状況を読み取り、勝てると思えば戦争を仕掛け、負けると思えば意地を張る事なく撤退する人物として描かれる事が多いようです。
歴史的評価と現代の認識
北条時行の評価は鎌倉幕府再興を図った英雄と後醍醐天皇に対して乱を起こした反逆者としての見方があります。北条時行は、鎌倉幕府滅亡後に幕府再興を図るべく中先代の乱を起こしました。そのため、室町幕府の時代には反逆者として厳しく批判されていた一方、足利尊氏と敵対した後醍醐天皇の南朝サイドからは室町幕府に敵対する存在として味方と見なされ、実際に南朝方の北畠顕家や新田義興と行動するケースも多いです。そのため、明治維新後に後醍醐天皇の南朝が日本の正統とされると、後醍醐天皇に敵対した足利尊氏が激しく攻撃されますが、後醍醐天皇に味方した北条時行は攻撃されていません。
現代における北条時行の再評価
近年の歴史研究では、時行を英雄か反逆者かに二分するのではなく、その行動背景や性格、時代背景などを総合的に評価する傾向にあります。また、歴史研究とは別に漫画「逃げ上手の若君」など、時行を主人公にしたフィクション作品が人気を集めることで、一般の人々の間で時行に対する関心が高まり、新たな評価が誕生しています。漫画では読者が感情移入しやすいように時行を魅力的なキャラクターとして描くので、従来の英雄か反逆者かの二元論ではなく、人間的な側面が強調されています。
北条氏の末裔は誰ですか?
北條氏の末裔として有名なのは、日本の映画俳優、高倉健さんがいます。高倉健さんの先祖は、1333年に鎌倉幕府が滅亡した時に14代執権、北条高時と共に自害した北条篤時だそうです。伝承によると篤時の子供たちは逃げ延びて周防国の大内氏に仕え、子孫が北九州で両替商「小松屋」を営んで小田姓を名乗るようになりました。高倉健さんの本名は、小田剛一で、50代になった時に自分の先祖が北条篤時であると知ったそうです。篤時は時行と同じく先祖が北条義時なので健さんは時行とも血縁がある事になりますね。
北条時行の子孫は誰ですか?
北条時行の子孫には、伝承として小田原北条氏を名乗った北条早雲(伊勢宗瑞)がいます。また、北条時行と熱田大宮司家の女の間に生まれた北条時満の子、北条時任が愛知郡横江村に定住し、その孫にあたる時永が横井氏を名乗って越前に移住して定住。幕末に活躍した思想家の横井小楠も時行の子孫を自称していたようです。
北条時行は中先代の乱の時何歳でしたか?
北条時行は、中先代の乱の時には6歳前後だと考えられています。兄の邦時が1325年生まれなので、少なくとも10歳を越えないのは確実で、実際に中先代の乱で指揮を執る事は無かったと考えられます。
北条時行の乱を平定したのは誰ですか?
北条時行の乱を平定したのは、足利尊氏です。尊氏は当時最強レベルで合戦に強く、時行は一度も尊氏には勝てませんでした。
北条時行のその後は?
北条時行は史実では、三度の鎌倉奪還をやり遂げた翌年、1353年に捕らえられ、24歳の若さで処刑されました。
北条時行は何歳まで生きた?
北条時行は24歳前後で処刑されました。時行は4歳で北条氏滅亡の惨劇に遭い、それから2年後に6歳で総大将として一度、鎌倉を奪還し、8歳で再び、鎌倉を奪い返し、23歳で最後の鎌倉奪還を果たした末に捕らえられて死んだので、生涯を鎌倉幕府再興に賭けた人物と言えます。
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北条時行はどうやって死んだの?
北条時行は、当時の鎌倉龍ノ口、現在の神奈川県藤沢市龍口で斬首されました。斬首は切腹とは違い、罪人の処刑方法である事から時行は、縄で縛られ罪人として処刑された事になります。
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