伊賀の方は大河ドラマでもお馴染み、北条義時の後妻になった女性です。
義時との間に7代執権となる北条政村をもうけた伊賀の方ですが義時の急死後、勢力巻き返しを図る北条政子に敗れ伊豆に流されてしまいます。今回は夫を毒殺した噂もある伊賀の方を分かりやすく解説しましょう。
この記事の目次
伊賀朝光の娘として誕生し北条義時の後妻となる
伊賀の方は伊賀局とも呼ばれ、元々は鎌倉御所で働いていた女房だったようです。父は藤原秀郷の流れを汲む御家人伊賀朝光で、兄弟には伊賀光季、光宗がいました。
大河ドラマでは、二階堂行政の孫娘設定ですが、伊賀朝光の妻が二階堂行政の娘なので、間違いではありません。
伊賀の方が、義時と結ばれた経緯については正確には分かりませんが、比企能員の変で前妻、姫の前と離縁した義時の後妻になったとされています。
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北条義時が権力を握ると伊賀の方も権力を強める
結婚の翌々年、元久2年(1205年)には後に七代執権となる政村を出産。さらに承元2年(1208年)に実泰を出産します。
夫の義時が、父、北条時政を伊豆に追放し鎌倉幕府執権として権力を握ると伊賀の方は将来の執権候補の生母として発言力が上昇し、兄弟の伊賀光季、光宗も重く用いられるようになります。また、伊賀の方の娘は公家の一条実雅に嫁ぐなど朝廷とのパイプも強化されていきました。
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泰時の急死後、北条政子と対立
北条義時が長生きしていれば、正室の発言力が強い当時の慣習から考えて、3代執権は庶長子である北条泰時ではなく、伊賀の方が産んだ嫡男、北条政村になっていた事でしょう。
しかし鎌倉幕府最大の危機である承久の乱を乗り越えた義時は貞応3年(1224年)急死。これにより伊賀の方は大きな後ろ盾を失い、復権を目指す尼将軍政子と対立する事になりました。
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子供がいない政子は義時の子、泰時と弟時房を抱き込む
伊賀の方と対立した政子ですが致命的な弱点を抱えていました。誕生した息子と娘が全て世を去っていたのです。
政子には、長女である大姫と長男頼家、次女三幡、次男実朝の4名の子供がいましたが、いずれも病死や暗殺でこの世になく、伊賀の方が北条の嫁として嫡男、次男を儲けていくのとは対照的でした。
そこで、政子は義時の庶長子、泰時と弟の時房に目を付けます。泰時と時房には承久の乱で軍勢を率い後鳥羽上皇を打ち負かした大きな功績があると同時に、とっくに成人して子供もいて将来性抜群でした。
一方で伊賀の方の嫡男、北条政村は20歳になったばかりで大きな武勲はありません。義時の嫡子というだけで御家人が付き従うかは不透明です。
老練な政子は、幕府の重鎮、大江広元と密談の末、六波羅探題で朝廷を監視する役割をこなしていた泰時と時房を密かに呼び戻し、泰時を執権に擁立しようと動き出します。
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伊賀の方は有力御家人、三浦義村を頼みにするが…
義時の亡き後は、当然、我が子、政村が執権になると思っていた伊賀の方は、政子の動きに焦りました。そこで、兄の伊賀光宗を中心に政村を3代執権に据えるとともに、娘が嫁いでいた一条実雅を担いで、5代将軍に押し立てようとします。
もうひとつ、伊賀氏の頼みの綱は北条氏に次ぐ有力御家人に成長した三浦義村でした。嫡男、北条政村の烏帽子親は義村だったからです。コウモリ野郎である義村は内心、北条氏を超えたいと考えていたので伊賀の方につこうと決意し、鎌倉は大戦が起きる噂で騒然となりました。
ところが、その噂を聞いた政子は大胆にも護衛もつけず義村の屋敷を訪ねて、義村に謀反する気があるのかを問い質しました。政子の気迫に義村は平身低頭、泰時を執権とする事に同意します。
ここで、軍事的な後ろ盾を失くした伊賀の方の失脚が決定しました。
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当然の権利を政子に奪われた伊賀の方の無念
政治抗争に敗れた伊賀の方は伊豆に流罪となります。ただ、嫡男政村は無関係という事で罪を問われず、新しい執権泰時を支える側になりました。
この事件は伊賀氏の乱として記録されますが、実際の伊賀氏は義時の正室として、嫡男、政村を執権にしようとしただけで反乱とは言えないようです。実際に吾妻鏡でも明確に反乱とは書いていませんし、北条泰時も伊賀氏に謀反の計画はなかったとしています。
むしろ、権力を横から奪ったのは北条政子であり、実際には北条政子の乱として記録すべき事件なのかも知れません。
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伊賀の方の最後
伊賀の方は伊豆に流されてから僅か4ヶ月で危篤との知らせが鎌倉に届き、以後は記録に出てこないのでそのまま病死したとも考えられます。
しかし、あまりにも急な死を考えると、政子による毒殺や暗殺かも知れません。禍根を絶つという意味で政子は頼朝以上に冷酷でアリエナイとは言えないでしょう。
ただ、せめてもの慰めというか因果は巡るというか、伊賀の方が執権につけようと執念を見せた嫡男政村は、鎌倉幕府の重職を担って活躍し、伊賀氏の乱から40年以上も経過した後、7代執権に就任し母の無念を晴らしています。
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日本史ライターkawausoの独り言
伊賀の方の不運は、当時の鎌倉幕府が執権の指導力を必要としていた過渡期にあった事です。北条得宗家の支配が確立した鎌倉中期に伊賀の方が登場していれば政村は問題なく嫡男として執権に就任していたでしょう。
鎌倉初期は、まだまだ道理よりも暴力、実力が幅を利かす時代だったのです。
【参考文献】
wikipedia
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