北条義時の正妻「姫の前」はどんな人?恋文を1年間既読無視した正室の妻

06/06/2022


2代目執権に就任する北条義時

 

北条義時(ほうじょうよしとき)」は、源頼朝(みなもとのよりとも)の創業に大いに貢献し、頼朝が亡くなった後は「執権」として鎌倉幕府(かまくらばくふ)の政治を担った武士です。

 

鎌倉殿13人 北条義時

 

NHK大河ドラマの主人公になるなど、一般的にも知名度が高くなってきた人物でもあります。そんな北条義時も当然、妻はいたのですが、その正妻はどんな人だったのでしょうか。今回の記事では北条義時の「正妻」について調べてみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北条義時、のちの正妻と出会う

北条義時

 

北条義時は源頼朝の協力者でもある豪族「北条時政(ほうじょうときまさ)」の次男として生まれました。後に姉の「北条政子(ほうじょうまさこ)」は頼朝の妻となっています。義時は頼朝の挙兵に従い、数々の兵士との戦いに転戦しました。

 

源頼朝活躍の陰に北条義時あり

 

そして頼朝の側近として頼朝の邸宅の警護などを務めるようになります。そこで義時は頼朝の邸宅「大倉御所(おおくらごしょ)」で働く女官「(ひめ)(まえ)」と出会うことになります。

 

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姫の前に言い寄る義時

吾妻鏡の表紙 書類.jpg

 

「姫の前」の本名は不明ですが、父は鎌倉幕府の有力な御家人「比企朝宗(ひきともむね)」です。当時の歴史者「吾妻鏡(あずまかがみ)」によると姫の前は「権威があり、頼朝のお気に入りで、容姿はとても美麗である。」と書かれており、人々の噂になるほどの絶世の美女だったようです。

 

八重姫に何度もフラれる北条義時.jpg

 

そんな姫の前に義時はほれ込み、何度も恋文を送り、その期間は1年にも及んだそうですが、姫の前は相手にしませんでした。

 

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はじめての平安時代

 

頼朝の仲介によりついに結婚

八重姫の事が大好きな北条義時.jpg

 

義時が何度も姫の前に言い寄っていたことを知った頼朝は、忠実な家臣であった義時のために仲を取り持つことにしました。頼朝は義時に「絶対に離婚しない」という起請文(きしょうもん)を書かせたのです。

 

頼朝の仲介と「起請文まで書く」という熱意に折れたのか、西暦1192年、姫の前と北条義時は結婚することになりました。二人の間には「朝時(ともとき)」「重時(しげとき)」そして「大江親広(おおえのちかひろ)」(大江広元(おおえのひろもと)の長男)の妻となった「竹殿(たけどの)」らが生まれています。

 

はじめての鎌倉時代

 

 

勢力争いに巻き込まれてしまう

比企能員 鎌倉

 

子宝にも恵まれた義時夫妻でしたが、西暦1203年に「比企能員(ひきよしかず)の乱」が発生します。頼朝の死後、跡を継いだ「頼家(よりいえ)」の舅であった御家人「比企能員」は権勢をふるっていました。

 

北条時政ら御家人勢力に嫌われていた梶原景時

 

北条時政を中心とする北条氏は頼家とは折り合いが悪く、比企氏の事を苦々しく思っていました。そんな時将軍頼家は比企能員と北条氏を討伐する計画を立てます。

 

謀反の疑いで謀殺され比企能員

 

しかし、この話を北条政子は障子越しに聞いており、それを家長の時政に伝えます。時政はこれを聞き、兵をあげ、比企一族を滅ぼしてしまうのです。

 

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源頼朝

 

その後の姫の前

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姫の前は比企一族であったので、確かな記録はないのですが、その後義時と離縁してしまったとみられます。

 

これは「明月記(めいげつき)」(公家の日記)という記録に「源具親(みなもとのともちか)の子は北条朝時と同母弟で・・・」と記載されていることから、義時と離縁した後に「源具親」と再婚した、と考えられるからです。その後「明月記」によると西暦1207年に姫の前は亡くなっています。

 

北条義時

 

 

義時の後妻

 

義時は姫の前と離縁後、後妻を迎えたようです。それは「伊賀(いが)(かた)」(本名不明)で、関東の豪族「伊賀朝光(いがともみつ)」の娘です。彼女は義時との間に「政村(まさむら)(のちの7代執権)」「実泰(さねやす)」らを儲けています。

 

西暦1224年に義時は亡くなるのですが、その後伊賀の方は兄とともに政村と娘婿を執権にしようと画策しますが、北条政子に拒否され、伊賀の方は流罪となってしまい、流罪先の伊豆で亡くなっています。伊賀の方の墓は静岡県の「北條寺」という寺に義時の墓の隣に立てられています。

 

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北条泰時の母親

八重姫と北条義時の息子 北条泰時.jpg

 

義時の死後、執権職を継いだのは「北条泰時」ですが、彼の母は「姫の前」でも「伊賀の方」でもありません。史書には「阿波局(あわのつぼね)」と記載されていますが、御所の女官だったということ以外、全く人物像はわかりません。

 

北条泰時の幼名を金剛と決めた源頼朝.jpg

 

泰時が生まれたのは姫の前と結婚する前ですから、御所で働いていた女官に若気の至りで義時が手を付けたのかもしれませんね。息子が執権になったのですから、阿波局はその後栄達してもよさそうですが、全く記録がないのでどのような人生を送っていたのかは謎です。

 

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日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

義時の正妻の「姫の前」は実家に振り回された波瀾万丈の人生を送ったようですね。それでも一族滅亡の後にも生き残り、他の人に嫁ぐことができのですから、わりと恵まれた最期だったのかもしれません。

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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