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水軍の血を引く僧「一遍上人」の壮絶な出生秘話とは?武家の血を継ぐ男の物語

25/12/2024


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

一遍上人(坊主)

 

 

踊り念仏や遊行を行ったとして名を馳せた、鎌倉時代の僧侶・一遍ですが、元々は河野水軍という武家の生れでした。

 

伊予水軍最後の当主 河野通直

 

 

伊予国(愛媛県)の有力な豪族でもあった「河野通信(カワノミチノブ)」の孫にあたるのです。通信は、平安末期の源平合戦において、源氏方に味方し、活躍した武将でした。今回は、一遍の出自について探っていきたいと思います。どうぞご一読ください。

 

藤原道長 平安時代

 

 

(※ちなみに、平安・鎌倉時代においては、「河野」は「カワノ」との発音だった可能性が高いと言われています。

 

反乱 モブ 戦争

 

 

戦国末期の河野本家の滅亡後、江戸時代に入ってから徐々に「カワノ」が「コウノ」へと変化したとも、あるいは、明治時代に入って、多くの庶民が名字を持つようになってから、「コウノ」と呼ばれるようになったとも、諸説あるようです。これは、「神戸」の読み方が「カンベ」から「コウベ」へと変化したと言われているのと似ているかもしれません。)

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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一遍の祖父「通信」について、鎌倉幕府成立にも貢献した水軍の将

鎌倉を拠点にした源頼朝

 

 

まず、一遍の祖父の「通信(ミチノブ)」について説明していきます。通信は、平安末期の源平合戦でも活躍した武将です。源氏方に味方し、源頼朝の鎌倉幕府成立に助力したと言われています。

 

鎌倉を出禁になった源義経

 

 

その後、奥州藤原氏と源義経を討伐する名目で勃発した「奥州合戦」(1189年)では、鎌倉幕府方に従軍しました。その際、陣中での食事では、通信が、土器を頻繁に使い、周囲を驚かせたという逸話も残っています。

 

坂東武士B(モブ)

 

 

奥州合戦で幕府方が勝利すると、通信は、伊予国(愛媛県)の多くの有力御家人を統率する立場となったのです。これにより、通信の地位も河野水軍の地位も、盤石になったように思えました。しかし、その奥州合戦から約三十年後に起きた動乱により、通信と河野水軍に危機が訪れるのです。

 

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源頼朝

 

 

承久の乱で危機一髪だった河野水軍

北条義時 vs 後鳥羽上皇(承久の乱)

 

それは、鎌倉幕府と京都の朝廷が争った「承久の乱(1221年)」でした。通信は、朝廷側、つまり「後鳥羽上皇」方に味方したのですが、朝廷側が敗軍になったため、東北の平泉へと配流となったのです。その翌年、その地で死去したと伝わっています。享年68歳でした。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

 

河野水軍を統率する当主が、その地位も領土も失ったのです。ただ、先の承久の乱において、河野一族のほとんどが、後鳥羽上皇方についたのですが、通信の息子の中で、「河野通久(カワノミチヒサ)」は、鎌倉幕府方に味方したのです。

 

北条時政

 

 

これは、通久の母が、「北条時政」(鎌倉幕府の初代執権)の娘だったためでした。実は、鎌倉幕府成立直後の頃、河野通信は、北条時政の娘の一人を、自分の妻として迎えていたのです。その妻との間にできた子が、通久でした。通久自身も、北条一族の血を引いていたことになり、幕府方に味方したという経緯がありました。そのおかげで、河野一族は、伊予国内での所領を、かろうじて守ることになったということです。

 

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北条政子

 

 

一遍の父もお坊さん!

 

そして、その通久の弟で、「河野通広(カワノミチヒロ)」がいました。これが、一遍の父親です。

 

武田信義 鎌倉殿の13人

 

通広は、承久の乱が勃発した当時は、浄土宗の僧侶として出家していたそうです(「如仏」と名乗っていました)。そのため、幕府方にも上皇方にも着くことがなかったので、幕府から咎めも受けることなく生き延びることができました。

 

一説では、その後、一時的に還俗して所領も持っていたとも言われています。しかし、「半僧半俗」として生活し、妻帯することも許される大乗仏教の宗派だったので、妻も持ち、子供を授かることもできたようです。結果、一遍が生まれたのです。幼名は「松寿丸(ショウジュマル)」と伝わっています。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

おわりに

コーノ 日本史ライター

 

ちなみに、一説では、その一遍の母親というのは、「大江季光(スエミツ)」の娘だったとも伝わっているようです。

 

大江広元は官位では源頼朝に継ぐナンバー2

 

季光は、鎌倉幕府の重臣だった「大江広元」の息子でした。広元は、源頼朝の側近として重用された人物でした。

 

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坂東武士A(モブ)

 

季光は、承久の乱では、幕府方の勝利に貢献し、その恩賞として、安芸の国(現在の広島県)を所領とし、その地に移り、「毛利」と名乗ったのです。

 

motonari-mori-Conquer(中国を制覇する毛利元就)

 

後の戦国時代に登場する、「毛利元就」の祖先にあたります。以来、河野一族と毛利一族とは縁戚となり、良好な関係は戦国末期まで続いたようです。さらに、毛利元就の幼名は「松寿丸」でしたので、一遍の幼名と同じということです。強い因縁を感じますね。

 

【了】

 

【主要参考】

・『一遍語録を読む』(金井清光・梅谷繁樹 共著)法蔵館文庫

・『日本人のこころの言葉 一遍』(今井 雅晴 著)創元社

・『踊念仏の現象学的研究に向けて』(宮 嶋 俊 一 著)

・『一遍上人語録』(大橋俊雄 校注)岩波書店

・『吾妻鏡

・『平家物語』

時宗総本山 遊行寺 Webサイトより

など

 

一遍上人

 

 

 

 

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コーノ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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