「梶原景時」は源頼朝の側近として鎌倉幕府で権勢をふるった人物ですが、当初は平家に味方をしていました。そんな時に頼朝が戦に敗れ隠れていたところ、平家方だった梶原景時がそれを発見。しかし、景時は頼朝を見逃し、のちに頼朝は再起をすることができたのです。
どうして景時は頼朝を見逃したのでしょうか?今回の記事ではそのことについて考えてみましょう。まずは梶原景時のプロフィールから。
この記事の目次
平家に従っていた梶原氏
梶原氏は元々は「後三年の役」などで源氏と共に戦っていた家柄でした。しかし、「平治の乱」で源氏の勢力が衰えると、平家に従うようになっていたのです。「平治の乱」以後、源頼朝は伊豆に流刑になっていましたが、のちに挙兵し、伊豆の代官を殺します。
これに平家は討伐軍を出し、その中に梶原景時が親類の「大庭景親」と共に参戦していました。彼らは「石橋山の戦い」で激突しますが、源氏は圧倒的兵力の平家に敗れ、箱根の山中に逃亡したのです。
景親、頼朝を見逃す!
頼朝は山中奥深くまで逃げ、見つけた洞窟(しとどの岩屋の臥木の洞窟)に身を隠します。しかし、大庭景親はその洞窟を発見、それを聞いた景時は率先して洞窟の中に入っていきました。すると身を潜めていた頼朝を発見、二人は顔を合わせてしまいます。もはやこれまで、と思った頼朝は自害を試みます。
しかし、景時はこの自害を押しとどめ、「見なかったことにしましょう。あなたが天下を治めるようになったらこの恩に報いて下さい。」と、命を助けたのです。
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頼朝の再起と景時
景時は洞窟をでると、一緒に洞窟に来ていた大庭景親に「蝙蝠ばかりで何もいない、向こうの山が怪しいのではないか。」といい、景親はそれを怪しみ、洞窟に入ろうとします。
ここで景時は「私を疑うのか?信じないというならそなたを許さない、もし洞窟に入ったらただでは済まないぞ。」と、景親を脅し、彼を退散させることに成功したのです。後に頼朝は再起、平家を各所で打ち破り、景時は頼朝に降伏するのです。
頼朝は洞窟での恩を忘れず、彼を重宝したと言います。また、景時は当時の東国武士としては珍しく和歌をたしなむなど教養も高かったので部下としての使い道も多かったと考えられます。
なぜ景時は頼朝の命を救ったのか?
どうして景時は頼朝の命を救ったのでしょうか。おそらくその理由は元々は梶原家が源氏に従っていたからでしょう。特に奥州での戦い「後三年の役」で梶原景時の祖先「梶原政景」は源氏の棟梁「源義家」と共に戦っていたことで有名です。
「平治の乱」の後平家の勢力が高まり、家を守るためにやむを得ず平家に仕えていた、という事情もあったと考えられます。元々源氏と共に戦った梶原家だけに、源氏の御曹司を殺すことにためらいがあったことは想像に難くないですね。
実は源氏に寝返っていた?
「愚管抄」という歴史書によると、景時は「頼朝挙兵時から従っていた」と書かれています。もしこの記述が事実ならば、景時は平家に仕えながらも、挙兵時にはすでに頼朝の味方をしていたことになります。
ならば、「頼朝を発見したけど見逃した」というのは頼朝と景時の関係を深めるための架空のエピソードとも考えられます。もしも、頼朝に通じていたのなら発見した頼朝を見逃すのもごく自然で、その後の栄達も納得できるものでしょう。
本当に見つけられなかった?
あまり夢のない説としては「本当に発見できなかった」という説もあります。当時は当然今のようにライトはありませんから、松明で夜道を歩くわけです。その明るさは頼りなく、たった一人で洞窟に入っていっても奥の方までは見えなかった可能性があります。
その時は見つけられなくて大庭景親に逆ギレしたが、のちに洞窟に頼朝が潜んでいたことを知り、「あの時は見逃したのだ。」と、景時の功績を大きく見せるためにエピソードを付け足した可能性もありますね。
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栄達する景時
頼朝の元で御家人として活動することになった景時は、謀反の噂があった「上総広常」を双六の最中に切り殺したりするなど頼朝の忠実な部下として活動しました。数々の戦でも功績をあげ、「一の谷の戦い」では息子とともに奮戦し、5か国の守護に任じられるほど栄達しました。
一方、軍事面では源義経と対立することもあり、「屋島の戦い」では船の動かし方で揉め(逆櫓論争)、「壇ノ浦の戦い」では先陣をめぐって争うなど、二人の仲は険悪でした。
平家は壇ノ浦で滅亡しますが、景時は義経に対して「判官殿(義経)はわがままで、多くの武士たちは心配しております。私が苦言を呈しても聞く耳持ちません。」と、鎌倉に報告しています。
景時の栄光と没落
景時は平家滅亡後も他の武将を讒言したり、捕虜にした武将の尋問にしくじるなど、あまり人間性には優れていなかったようですが、その実務能力の高さから、鎌倉幕府内で重きをなしました。
これは頼朝死後も同じで、2代将軍頼家の独裁を防ぐべく行われた「13人の合議制」にも参加しています。しかし、「結城朝光」が頼朝の思い出を語り、現在の不安を語ったところ、それが景時の知ることとなり、「謀反の疑いあり」と讒言しようとします。
朝光は他の御家人に相談すると、誰も景時の味方はせず、逆に景時に対する「糾弾状」を将軍頼家に提出します。追及された景時は言い訳せず、追放されましたが、のちに一族もろとも襲撃され、殺されてしまうのです。
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日本史ライターみうらの独り言
梶原景時は頼朝を見逃し、命を救ったことから、一見すると「情に厚い」人物だったような気もしますが、その生涯を見ると、能力はあるが人間的には問題がある人だったようですね。そう考えると、頼朝を救ったのも何か源氏の再興を予感できた何かが景時の中にあったのか、実は頼朝と通じていたのかもしれませんね。
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