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梶原景時はなぜ頼朝を見逃したのか?情に流された?

09/09/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

梶原景時 鎌倉

 

梶原景時かじわらかげとき」は源頼朝みなもとのよりともの側近として鎌倉幕府かまくらばくふで権勢をふるった人物ですが、当初は平家へいけに味方をしていました。そんな時に頼朝が戦に敗れ隠れていたところ、平家へいけ方だった梶原景時かじわらかげときがそれを発見。しかし、景時は頼朝を見逃し、のちに頼朝は再起をすることができたのです。

 

源頼朝に恩義を売っておこうと考えた梶原景時

 

どうして景時は頼朝を見逃したのでしょうか?今回の記事ではそのことについて考えてみましょう。まずは梶原景時かじわらかげときのプロフィールから。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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平家に従っていた梶原氏

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

梶原氏は元々は「後三年の役ごさんねんのえき」などで源氏と共に戦っていた家柄でした。しかし、「平治の乱へいじのらん」で源氏の勢力が衰えると、平家へいけに従うようになっていたのです。「平治の乱へいじのらん」以後、源頼朝みなもとのよりとも伊豆いずに流刑になっていましたが、のちに挙兵し、伊豆いずの代官を殺します。

 

 

10倍の兵力で源頼朝を圧倒する大庭景親

 

これに平家へいけは討伐軍を出し、その中に梶原景時かじわらかげときが親類の「大庭景親おおばかげちか」と共に参戦していました。彼らは「石橋山の戦いいしばしやまのたたかい」で激突しますが、源氏は圧倒的兵力の平家へいけに敗れ、箱根はこねの山中に逃亡したのです。

 

 

景親、頼朝を見逃す!

大庭景親に敗北し洞窟に隠れる源頼朝

 

頼朝は山中奥深くまで逃げ、見つけた洞窟(しとどの岩屋の臥木の洞窟しとどのいわやのふしきのほらあな)に身を隠します。しかし、大庭景親おおばかげちかはその洞窟を発見、それを聞いた景時は率先して洞窟の中に入っていきました。すると身を潜めていた頼朝を発見、二人は顔を合わせてしまいます。もはやこれまで、と思った頼朝は自害を試みます。

 

洞窟に潜伏していた源頼朝を見てみぬふりをする梶原景時

 

しかし、景時はこの自害を押しとどめ、「見なかったことにしましょう。あなたが天下を治めるようになったらこの恩に報いて下さい。」と、命を助けたのです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

頼朝の再起と景時

大庭景親 鎌倉

 

景時は洞窟をでると、一緒に洞窟に来ていた大庭景親おおばかげちかに「蝙蝠ばかりで何もいない、向こうの山が怪しいのではないか。」といい、景親はそれを怪しみ、洞窟に入ろうとします。

 

ここで景時は「私を疑うのか?信じないというならそなたを許さない、もし洞窟に入ったらただでは済まないぞ。」と、景親を脅し、彼を退散させることに成功したのです。後に頼朝は再起、平家へいけを各所で打ち破り、景時は頼朝に降伏するのです。

 

源頼朝の御家人になった梶原景時

 

 

頼朝は洞窟での恩を忘れず、彼を重宝したと言います。また、景時は当時の東国武士としては珍しく和歌をたしなむなど教養も高かったので部下としての使い道も多かったと考えられます。

 

源頼朝

 

 

なぜ景時は頼朝の命を救ったのか?

源頼朝や源頼家に対して忠義に生きた不器用な梶原景時

 

どうして景時は頼朝の命を救ったのでしょうか。おそらくその理由は元々は梶原家が源氏に従っていたからでしょう。特に奥州での戦い「後三年の役ごさんねんのえき」で梶原景時かじわらかげときの祖先「梶原政景」は源氏の棟梁「源義家」と共に戦っていたことで有名です。

 

平治の乱へいじのらん」の後平家へいけの勢力が高まり、家を守るためにやむを得ず平家へいけに仕えていた、という事情もあったと考えられます。元々源氏と共に戦った梶原家だけに、源氏の御曹司を殺すことにためらいがあったことは想像に難くないですね。

 

 

実は源氏に寝返っていた?

book-Suikoden(水滸伝-書類)

 

「愚管抄」という歴史書によると、景時は「頼朝挙兵時から従っていた」と書かれています。もしこの記述が事実ならば、景時は平家へいけに仕えながらも、挙兵時にはすでに頼朝の味方をしていたことになります。

 

 

ならば、「頼朝を発見したけど見逃した」というのは頼朝と景時の関係を深めるための架空のエピソードとも考えられます。もしも、頼朝に通じていたのなら発見した頼朝を見逃すのもごく自然で、その後の栄達も納得できるものでしょう。

 

 

本当に見つけられなかった?

猜疑心が芽生える源頼朝

 

あまり夢のない説としては「本当に発見できなかった」という説もあります。当時は当然今のようにライトはありませんから、松明で夜道を歩くわけです。その明るさは頼りなく、たった一人で洞窟に入っていっても奥の方までは見えなかった可能性があります。

 

その時は見つけられなくて大庭景親おおばかげちかに逆ギレしたが、のちに洞窟に頼朝が潜んでいたことを知り、「あの時は見逃したのだ。」と、景時の功績を大きく見せるためにエピソードを付け足した可能性もありますね。

 

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栄達する景時

御家人の行動を監視して源頼朝に報告する梶原景時

 

頼朝の元で御家人として活動することになった景時は、謀反の噂があった「上総広常」を双六の最中に切り殺したりするなど頼朝の忠実な部下として活動しました。数々の戦でも功績をあげ、「一の谷の戦い」では息子とともに奮戦し、5か国の守護に任じられるほど栄達しました。

 

暗殺のようなダーティーな仕事もする梶原景時

 

一方、軍事面では源義経と対立することもあり、「屋島の戦い」では船の動かし方で揉め(逆櫓論争)、「壇ノ浦の戦い」では先陣をめぐって争うなど、二人の仲は険悪でした。

 

平家を滅ぼした最大の功労者・源義経

 

平家へいけは壇ノ浦で滅亡しますが、景時は義経に対して「判官殿(義経)はわがままで、多くの武士たちは心配しております。私が苦言を呈しても聞く耳持ちません。」と、鎌倉に報告しています。

 

源義経

 

 

 

景時の栄光と没落

命令とあらば何でも遂行する梶原景時

 

景時は平家へいけ滅亡後も他の武将を讒言したり、捕虜にした武将の尋問にしくじるなど、あまり人間性には優れていなかったようですが、その実務能力の高さから、鎌倉幕府かまくらばくふ内で重きをなしました。

 

和歌を詠むなど教養もあった梶原景時

 

これは頼朝死後も同じで、2代将軍頼家の独裁を防ぐべく行われた「13人の合議制」にも参加しています。しかし、「結城朝光」が頼朝の思い出を語り、現在の不安を語ったところ、それが景時の知ることとなり、「謀反の疑いあり」と讒言しようとします。

 

梶原景時の失脚を目論む三浦義澄と三浦義村

 

 

朝光は他の御家人に相談すると、誰も景時の味方はせず、逆に景時に対する「糾弾状」を将軍頼家に提出します。追及された景時は言い訳せず、追放されましたが、のちに一族もろとも襲撃され、殺されてしまうのです。

 

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日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

梶原景時かじわらかげときは頼朝を見逃し、命を救ったことから、一見すると「情に厚い」人物だったような気もしますが、その生涯を見ると、能力はあるが人間的には問題がある人だったようですね。そう考えると、頼朝を救ったのも何か源氏の再興を予感できた何かが景時の中にあったのか、実は頼朝と通じていたのかもしれませんね。

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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