NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人もいよいよクライマックス、承久の乱が描かれます。承久の乱は、蓋を開けてみれば鎌倉幕府の大勝利で終るのですが、それは結果論であり、一歩間違えば関東御家人が大挙して上皇方について幕府が滅亡する可能性もありました。
ドラマでは尼将軍政子の演説が勝利に貢献したと強調されますが、どっこいそれだけではなく、大江広元、三善康信、北条泰時、北条時房の見事なリレーも大きかったのです。
この記事の目次
政子の演説後も御家人はすぐには動かなかった
有名な尼将軍政子の御家人への演説は、吾妻鏡によると1221年5月19日でした。政子は亡き頼朝のお陰で御家人たちは自分達の所領を持つ事が出来ているのであるから、その恩義を忘れずに無理筋の難題を言って寄こす朝廷に勇敢に立ち向かいなさいと激励します。
この演説により御家人たちは涙を流し、頼朝の恩に報いようとする者達で一致団結したと吾妻鏡にはあります。
さらに政子は、箱根山に関所を築いて籠城するか、兵を率いて京都に攻め上るかの2つの案を出してきた義時に対して、「京都に行かないと朝廷の軍を破れないでしょう?」と言い、武蔵国の兵力が集まるのを待って京に攻め込むように命じます。
尼将軍の命令を受け義時は関東諸国に兵を鎌倉に集めるよう命令を出しました。
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政子の演説後もダラダラ続く評定
ところが、尼将軍政子の感動的な演説から2日経過した5月21日、鎌倉ではまだ会議が開かれていました。どうしてかと言えば有力御家人の中に、何も考えないで京都に攻め込むのはよくない、朝廷と喧嘩しないで済む妙案があるのではないかという反対意見が多かったからです。
政子の演説が感動的でなかったとは言いませんが、一日経てば感動も薄れて「いや待てよ」と考えるのが人間というもので、ましてや幕府に味方して敗北すれば領地を失うのは避けられないので日和見する御家人が増えてきたのです。
そして、政子が言ったように、武蔵国の軍勢が鎌倉に集結するのを待って大軍で上洛しようという意見が御家人の中から出てきました。
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大江広元激白!ここは泰時1人でも鎌倉を飛び出すべき
しかし、ここでインテリヤクザ大江広元がキレ気味に力説します。
「そもそも、京都に攻め上ると決めてから、ダラダラしているから異論が出てくるのです。武蔵から軍勢が来るのを待とうなどとは、愚策も愚策!その間に武蔵の御家人の気が変わり朝廷に味方すべしとなればなんとします。ここは総大将の泰時殿一騎でも鎌倉を飛び出していけば、御家人たちの腹も決まり、さながら龍が雨雲を率いるような大軍となりましょう」と大胆な意見を披露します。
泰時からすれば「え?」ですが、義時と政子は広元の意見だけで決める事を躊躇い、当時、病床に臥せていた三善康信に意見を求めました。
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珍しく三善康信と大江広元の意見が一致
尼将軍政子は、病気がちの三善康信を呼び寄せて意見を聞きます。
すると康信は「現在、鎌倉は追い込まれていますから、皆で意見を出し合い最善の策を決めるのは当然の事ですね。しかし、一度京都に攻め込むと決めてより日時を置くと、士気が衰えてくるのも事実です。今は兵を京都に進める事が大事で、それこそ総大将1人でも出撃すべきです」と水と油の関係だった広元と意見が一致しました。
この珍しい状況に信心深くなっていた北条義時は、これぞ天意」として息子の泰時にすぐに鎌倉を出撃するように命じます。
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たったの18騎が11000倍に膨れ上がる
義時の命令を受けた泰時は叔父の時房や息子の時氏、郎党の平盛綱など僅かに18騎を引き連れて寂しく鎌倉を出発しました。しかし、大江広元、三善康信の見立ては的中していて、進軍するほどに味方に加わる御家人が増加し、最終的には11000倍の19万騎に膨れ上がります。
この数の前には、いかな後鳥羽上皇でもどうしようもなく、承久の乱は異例の時短で鎮圧されるのでした。
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日本史ライターkawausoの独り言
この逸話には、人を動かすのは言葉よりも行動だという普遍的な真理が隠されています。それがどんなに感動的な演説でも、言葉だけでは人はなかなか動かないもので、逆に行動は、それが拙劣に見えても人を動かすのに大きな力があるのです。
そして、アクションを起こすには動く人の存在が絶対に重要である事も分かります。承久の乱では北条泰時、北条時房が政子の演説を行動で示したからこそ、内心は迷っていた関東御家人の心を最終的に動かせたのだと言えるのです。
参考:吾妻鏡
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