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承久の乱、幕府が勝ったのは尼将軍演説のお陰「だけ」ではなかった?【鎌倉殿の13人】

12/12/2022


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

坂東武士B(モブB)

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人もいよいよクライマックス、承久の乱が描かれます。承久の乱は、蓋を開けてみれば鎌倉幕府の大勝利で終るのですが、それは結果論であり、一歩間違えば関東御家人が大挙して上皇方について幕府が滅亡する可能性もありました。

 

源頼朝に重宝された大江広元

 

ドラマでは尼将軍政子の演説が勝利に貢献したと強調されますが、どっこいそれだけではなく、大江広元、三善康信、北条泰時、北条時房の見事なリレーも大きかったのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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政子の演説後も御家人はすぐには動かなかった

北条政子による「承久の乱」の名演説

 

 

有名な尼将軍政子の御家人への演説は、吾妻鏡によると1221年5月19日でした。政子は亡き頼朝のお陰で御家人たちは自分達の所領を持つ事が出来ているのであるから、その恩義を忘れずに無理筋の難題を言って寄こす朝廷に勇敢に立ち向かいなさいと激励します。

 

この演説により御家人たちは涙を流し、頼朝の恩に報いようとする者達で一致団結したと吾妻鏡にはあります。

 

比企一族を全て滅ぼす北条政子

 

 

さらに政子は、箱根山に関所を築いて籠城するか、兵を率いて京都に攻め上るかの2つの案を出してきた義時に対して、「京都に行かないと朝廷の軍を破れないでしょう?」と言い、武蔵国の兵力が集まるのを待って京に攻め込むように命じます。

 

尼将軍の命令を受け義時は関東諸国に兵を鎌倉に集めるよう命令を出しました。

 

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政子の演説後もダラダラ続く評定

公家同士の会議(モブ)

 

ところが、尼将軍政子の感動的な演説から2日経過した5月21日、鎌倉ではまだ会議が開かれていました。どうしてかと言えば有力御家人の中に、何も考えないで京都に攻め込むのはよくない、朝廷と喧嘩しないで済む妙案があるのではないかという反対意見が多かったからです。

 

政子の演説が感動的でなかったとは言いませんが、一日経てば感動も薄れて「いや待てよ」と考えるのが人間というもので、ましてや幕府に味方して敗北すれば領地を失うのは避けられないので日和見(ひよりみ)する御家人が増えてきたのです。

 

そして、政子が言ったように、武蔵国の軍勢が鎌倉に集結するのを待って大軍で上洛しようという意見が御家人の中から出てきました。

 

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大江広元激白!ここは泰時1人でも鎌倉を飛び出すべき

源頼朝に重宝された大江広元

 

 

しかし、ここでインテリヤクザ大江広元がキレ気味に力説します。

 

「そもそも、京都に攻め上ると決めてから、ダラダラしているから異論が出てくるのです。武蔵から軍勢が来るのを待とうなどとは、愚策も愚策!その間に武蔵の御家人の気が変わり朝廷に味方すべしとなればなんとします。ここは総大将の泰時殿一騎でも鎌倉を飛び出していけば、御家人たちの腹も決まり、さながら龍が雨雲を率いるような大軍となりましょう」と大胆な意見を披露します。

 

バカ真面目で正直な北条泰時

 

 

泰時からすれば「え?」ですが、義時と政子は広元の意見だけで決める事を躊躇い、当時、病床に臥せていた三善康信に意見を求めました。

 

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珍しく三善康信と大江広元の意見が一致

三善康信

 

 

尼将軍政子は、病気がちの三善康信(みよしやすのぶ)を呼び寄せて意見を聞きます。

 

すると康信は「現在、鎌倉は追い込まれていますから、皆で意見を出し合い最善の策を決めるのは当然の事ですね。しかし、一度京都に攻め込むと決めてより日時を置くと、士気が衰えてくるのも事実です。今は兵を京都に進める事が大事で、それこそ総大将1人でも出撃すべきです」と水と油の関係だった広元と意見が一致しました。

 

行政権を握り敵が多くなった北条義時

 

 

この珍しい状況に信心深くなっていた北条義時は、これぞ天意」として息子の泰時にすぐに鎌倉を出撃するように命じます。

 

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たったの18騎が11000倍に膨れ上がる

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)武士

 

 

義時の命令を受けた泰時は叔父の時房や息子の時氏、郎党の平盛綱など僅かに18騎を引き連れて寂しく鎌倉を出発しました。しかし、大江広元、三善康信の見立ては的中していて、進軍するほどに味方に加わる御家人が増加し、最終的には11000倍の19万騎に膨れ上がります。

 

後鳥羽上皇は佐渡島に島流し

 

 

この数の前には、いかな後鳥羽上皇でもどうしようもなく、承久の乱は異例の時短で鎮圧されるのでした。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

 

この逸話には、人を動かすのは言葉よりも行動だという普遍的な真理が隠されています。それがどんなに感動的な演説でも、言葉だけでは人はなかなか動かないもので、逆に行動は、それが拙劣に見えても人を動かすのに大きな力があるのです。

 

そして、アクションを起こすには動く人の存在が絶対に重要である事も分かります。承久の乱では北条泰時、北条時房が政子の演説を行動で示したからこそ、内心は迷っていた関東御家人の心を最終的に動かせたのだと言えるのです。

 

参考:吾妻鏡

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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