さて今回のお話のテーマはズバリ「源義経はなぜ検非違使に任命された?」となります。長く言われていることですが、源義経が兄である源頼朝との不和の原因、これが後白河法皇から源義経が検非違使に任命されたから……と言われてきました。
しかし、様々な要因から実際にはこれは関係はなかったのでは?とも考察されています。ここでは検非違使に付いてのお話もしながら、そこら辺についてもじっくりと語っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
この記事の目次
検非違使のお役目、衰退した役職
さて検非違使とは?
「検非違」とは非違、違法行為を検察することで「使」は使い、つまり天皇のお使い、使者となります。検非違使の役職は平安時代に設置され、今で言う警察官、裁判官のお役目を持ち、京都の治安維持や犯罪などを取り締まる役目を担ってきました。検非違使長官である検非違使別当ともなれば蒸留貴族の犯罪も取り締まれるほどの権威を持ち、かなりの権力を持つことができたとされています。
とは言え、平安時代も末期となるとこれは武士たちに取って代わられ、衰退していくこととなるのですが……。
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検非違使に任命された源義経、兄弟の不和の始まりか
その検非違使に任命されたのが、ご存知源義経。検非違使判官に任命されたことから、九郎判官とも呼ばれるようになりました。そして任命したのが後白河法皇。彼は平氏追討の功績から義経を任官したのですが、これが義経と頼朝の不和に繋がっていきます。この任官は頼朝の頭を飛び越して行われたもの、このため「勝手な行動」として頼朝は義経に怒ってしまう訳ですね。
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後白河法皇の企み?源義経が検非違使に任命された理由
この後白河法皇による源義経、検非違使判官に任官した出来事。これは後白河法皇の策略だった、という話があります。というか多くの場合で見られる解釈ではないでしょうか。
後白河法皇としては平家は打倒して欲しいけれど、かといって平家に源氏が取って代わられるだけでは意味が有りません。源氏の力を削ぐために、わざと義経を任官することで、兄弟仲を悪くしようと企んだのです……何という老獪さ!
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とは言われているが、決定打ではなかった可能性も?
ここで少し触れたいのが、義経に対して頼朝が怒った理由、実はいくつかあるのです。
・平氏追討で梶原景時の意見を聞かずに独断行動
・壇ノ浦での越権行為
・東国武士たちの犯罪に関して、独断で成敗した
・活躍しすぎて東国武士たちの戦功を独り占め
・壇ノ浦では三種の神器が失われた
などなど。これらの要因があるにも関わらず、兄弟の仲違いの大きな理由として任官問題が挙げられるのは吾妻鏡に義経の検非違使任命に対して頼朝は『すこぶる御気色を違えた』とされているからです。
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源義経はなぜ検非違使に任命された?問題点の一つ
ここで、源義経が検非違使に任命されること、の問題点を一つ上げてみましょう。検非違使、それも検非違使判官という役職は、基本的に「京都の街を守ること」がお役目となります。
もっと言うと、後白河法皇の身をお守りすることもお役目と言えるでしょう。つまり、幕府、及び、源頼朝のために働くことが難しくなるのです。これこそが後白河法皇の狙いだった、と言えば、義経は罠に落ちたことになります。
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源義経はなぜ検非違使に任命された?頼朝の対応が無駄に……
もう一つ、検非違使に任命された一件で、起こった問題があります。前述したように、平氏追討で義経は活躍しすぎたことで、不平不満が挙がっていました。頼朝はトップとしてどうにかせねばなりません。しかし頑張った義経から褒賞を取り上げるというのも……として「義経の伊予守推挙」を考えていました。
ですが義経は後白河法皇の異例の任官を受けた上に、伊予守就任後も検非違使判官を兼任していたと言うのです。本来ならば幕府側の義経が、幕府のために動けなくなった。この場合は頼朝からすれば自分の考えと対応を台無しにしてしまった義経、となる訳で。結果として兄弟の溝はより深くなってしまった訳ですね。
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頼朝、義経の行為に「すこぶる」怒る
さて、最後にある一件に付いて触れておきましょう。頼朝は義経の行動に『すこぶる御気色を違えた』と吾妻鏡に記述されています。すこぶるとはとっても、とか、普段よりももっと、という意味で使われますね。
「すこぶる元気です!」
という風に。つまりこれは「頼朝はとっても怒っている」ということになるので、多くの場合、これが頼朝と義経の仲違いの発端、とされてきました。しかしすこぶるには「ちょっと」という意味もあるのです。
そちらの意味で使うと「頼朝はちょっと怒った」みたいな意味になるのですね……どちらの意味で使われているのかはっきりしない以上、判断は難しいのですが。もしかしたらこれは小さな発端であり、そこからじわじわと怒りと不満が溜まるようになって……という源氏兄弟の不和、という新しい解釈も、可能かもしれませんね。
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さて今回は源義経はなぜ検非違使に任命された?を考えてみました。多くの場合では後白河法皇の策略、とされていますが、もしかしたら「すっごく強い義経くんには都をまもってもらお!」くらいの考えだった可能性もあります。
それを受けてしまった義経に対して頼朝も激怒はせず「あーもー九郎はまた勝手に決めるんだからー」くらいの不満だったかもしれません。しかしこれらの全てがよりにもよって最悪な方向に突っ走っていた……そういう「偶然」もまた怖いものではないか。そう思った筆者でした。ちゃぷり。
参考:吾妻鏡
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