鎌倉幕府と江戸幕府に挟まれ中途半端さが否めない室町幕府。
大体、室町時代は前半南北朝と重なり、後半戦国時代とかぶり純粋に室町時代「だけ」の期間は百年位しかないイメージです。そんな室町幕府を開いたのが足利尊氏ですが、この尊氏、日本一のいい加減将軍であり、室町幕府もそんな尊氏のいい加減さをひきずり中途半端な幕府になってしまいました。
この記事の目次
鎌倉幕府の名門足利貞氏の次男として誕生
足利尊氏は河内源氏義国流足利氏本家の8代目棟梁、足利貞氏の次男として誕生。歴代当主の慣例に従い、当時の執権、北条高時の偏諱を受け高氏と名乗りました。
ちなみに高氏が尊氏と改名したのは後醍醐天皇の名前の尊治から偏諱を受けたもので、鎌倉幕府が滅んで後の事です。
後世に編纂された難太平記では尊氏が産湯をつかった時に2羽の山鳩が飛んできて一羽は尊氏の肩にもう1羽はお湯をかける柄杓に止まったという話があります。なにかの瑞兆なのかも知れませんが、よく分かりません中途半端ですね。
15歳で従五位下に叙して治部大輔に任ぜられ北条家以外の御家人では圧倒的に優遇されているスピード昇進でした。さらに尊氏は北条氏の有力者赤橋守時の妹、赤橋登子を正室に迎えます。赤橋守時は鎌倉幕府最後の執権にもなっていて尊氏の前途は順風満帆でした。
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足利尊氏系図
足利尊氏について述べる前に、尊氏がいかに鎌倉幕府において名門だったかを見てみます。
足利氏は河内源氏の3代目の棟梁、源義家の三男源義国を最初とし、下野国の足利荘を本貫として次男の源義康以降の子孫が足利を称します。
この義康は鳥羽上皇の北面の武士をつとめ、保元の乱においても平清盛、源義朝と共に戦い、その子足利義廉は治承4年の源頼朝挙兵に参加して治承・寿永の乱、奥州合戦に参加。様々に手柄を立て続け、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を固め、御門葉として源氏将軍家の一門的地位に就きます。
そして、3代足利義氏以降、上総・三河の守護職を務め三河足利氏(吉良氏)、足利尾張氏(斯波氏)、細川氏、仁木氏、一色氏、畠山氏、今川氏など、室町から戦国にかけて、よく名前が登場する支流分家を出し大いに繁栄しました。
源氏将軍が滅亡して執権北条氏が政権を取った後も婚姻や偏諱を通じて良好な従属関係を維持していき、途中に鎌倉幕府に無断で出家した4代の足利泰氏や、霜月騒動に関連して殉死した6代足利家時もいますが、執権北条氏の信頼を損ねる事なく8代目の尊氏まで鎌倉幕府の有力御家人であり続けました。
そんなわけで足利尊氏は鎌倉幕府としても絶大な信頼を置ける名門だったのです。
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足利尊氏やったこと
では、足利尊氏は、なにをやったのでしょうか?
ザックリと言うと鎌倉幕府の倒幕を図って2度もクーデターに失敗していた後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を滅亡させたのです。元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇は流罪先の隠岐を脱出し伯耆国船上山に籠城しました。
この時、高氏は病気でしたが再び幕命の命令を受けて、西国の討幕勢力を鎮圧するべく、名越高家とともに司令官として上洛します。ただ幕府は尊氏に不審を抱いていて、尊氏が妻登子と嫡男千寿王(義詮)を帯同しようとすると幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させました。
そして、名越高家が緒戦で戦死し後醍醐天皇の誘いを受けた高氏は、幕府への不信から天皇方につくことを決意、所領の丹波国篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げます。
尊氏は諸国に軍勢催促状を出し天皇の旗に集うように呼びかけ有力御家人が続々と参加。さらに、播磨の赤松円心、近江の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合し尊氏は5月7日に幕府出先機関、六波羅探題を滅亡させました。同時期に関東では上野国御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込みます。
こうして見ると尊氏は時勢を見る目に長けた極悪人のようですが、すでに北条氏の政治は腐敗し、御家人の困窮と没落を尻目に、多くの領国を北条一門で独占。御家人の不満を一身に集めていました。尊氏は幕府崩壊の引き金を引いただけで、幕府が滅びるのは時間の問題だったとも言えるでしょう。
足利尊氏 幕府を開府
鎌倉幕府を滅ぼした尊氏は、後醍醐天皇より勲功第一として従四位下に叙され鎮守府将軍、左兵衛督に任じられ全国に30カ所の荘園を与えられ、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日には従三位に昇叙します。
しかし尊氏は建武政権では自ら要職には就かず家臣を政権に送り込み間接的に政治に関与する方法を採用します。これには後醍醐天皇が尊氏を煙たがったという見方と尊氏が建武政権と距離を置いたとする双方の見解があります。
建武2年(1335年)信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏の残党が中先代の乱を起こし、鎌倉を一時占拠する事態になりました。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望みますが、尊氏の幕府開府を恐れた天皇は許可せず、8月2日天皇の許可のないまま軍勢を率い鎌倉に向かいました。
天皇は尊氏をコントロール出来なくなる事を恐れ、やむなく征東将軍の称号を与えます。こうして尊氏は、鎌倉から落ち延びていた弟直義の軍勢と合流。相模川の戦いで北条時行を撃破し、8月19日に鎌倉を回復しました。
ここから尊氏は帰還しては危ないと主張する直義の意見を入れて鎌倉に留まり、戦争で功績のあった御家人に独自に恩賞を与えるようになります。もちろん後醍醐天皇は勝手な事をするなと叱りますが尊氏は無視しました。
今度は天皇を裏切ったかに見える尊氏ですが建武の新政は後醍醐天皇に近い武家や公家に手厚く実際に鎌倉幕府を倒すのに骨を折った御家人に恩賞は行き渡りませんでした。その御家人の不満の受け皿が武家の足利尊氏だったのです。
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尊氏、後醍醐天皇に嫌われ衝撃で出家を決意
もちろん、尊氏の幕府開府など後醍醐天皇は認めません。激怒した天皇は、新田義貞に尊良親王を伴わせて尊氏討伐を命じ、奥州からは北畠顕家も南下を開始しました。
天皇の怒りにビックリした尊氏は、赦免を求めて隠居を宣言。寺に引き籠り断髪します。
いやいや、ここまで来たらもう遅いだろうと思いますが、尊氏は思い込むと現在状況がまるで見えなくなって全てを自分に都合よく捏造する癖があり、それはメリットにもデメリットにもなりました。
しかし、弟の直義や執事の師直の軍勢が各地で劣勢になると、尊氏は彼らを救うべく天皇に逆らう事を決意します。こうして尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り京都へ進軍、その間に持明院統の光厳上皇と連絡を取り反乱の正統性を得る工作をしました。
建武3年(1336年)正月、尊氏は京都に入洛し後醍醐天皇は比叡山に退きます。
ところが尊氏軍は奥羽より上洛した北畠顕家、楠木正成、新田義貞に敗北。篠村八幡宮で京都奪還を狙いますが途中新田軍に大敗、京都を放棄し九州に下りました。
大勝利した天皇方ですが、ここで楠木正成は勝った天皇方の御家人から尊氏を慕い脱走する兵士が大勢出ている事を目撃。建武の新政はこのままでは破綻すると危機意識を持つようになります。
人気絶大な足利尊氏は、少弐頼尚の迎えを受け、天皇方の菊池武敏を破り大友貞順等の天皇方勢力を駆逐。京都に攻め上る途中に光厳上皇の院宣を獲得して西国武士を集め、5月25日に湊川の戦いで新田義貞、楠木正成の軍を破り6月には再び京都を制圧します。
逆転大勝利した尊氏ですが、またこの場面で隠居したいという遁世願望が出現しました。そして、比叡山に隠れていた後醍醐天皇の顔を立てる形で和議を申し入れ天皇はこれを受けて光厳上皇の弟、光明天皇に神器を譲りました。尊氏は建武式目17条を定め、政権の基本方針を示し新たな武家政権の樹立を宣言します。
こうして室町時代が始まりますが、尊氏の10倍面倒くさい性格である後醍醐天皇は、京都を脱出して吉野へ逃れ、「譲った三種の神器は偽物ですよーだ」と言いだし独自王朝を樹立(南朝)。ここに室町幕府開府早々南北朝の騒乱が幕を開けました。
さらにぶっちゃけますと、尊氏が生きている間に南北朝の騒乱は収まらず、孫の義満の時代まで60年以上も継続します。
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足利尊氏 弟直義と争う
南朝との戦いは後醍醐天皇の死後、足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正行など南朝方の名将が次々に戦死、大きな脅威とはならない程に弱体化しました。新政権において尊氏は政務を直義に取り仕切らせ自身は軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨します。
ところが二分した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び、高師直らの反直義派と直義派の対立として表面化、観応の擾乱が勃発しました。尊氏は当初どちらにもつかず中立的立場を取っていました。
最初、直義が師直を襲撃しますが、それを察知した師直側の反撃を受けます。敗れた直義は尊氏邸に逃げ込み、尊氏の屋敷を師直の兵が包囲しました。師直は尊氏に直義引退を求め、直義は出家し政務を退くこととなります。
ところが直義引退後、尊氏庶子で直義の養子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大。尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征します。すると直義は京都を脱出し南朝に降伏。直義派の武将たちもこれに従います。師直の要請で鎌倉から京都に呼び戻された足利義詮は直義の勢力が強大になると劣勢となって京を脱出。
尊氏も京都に戻ろうとしますが、光明寺合戦や打出浜の戦いで直義に敗北しました。ここで尊氏は高師直と師泰兄弟の出家、流罪を条件に直義と和睦します。
尊氏は師直兄弟とともに京に戻りますが、出家姿でみすぼらしい二人と一緒に上洛するのは「見苦しい」と言い捨て自分から離れて歩くように命令を出します。師直兄弟は尊氏に見捨てられ護送中に上杉能憲により殺害されました。
勝利者の直義は、義詮の補佐として堂々と政務に復帰します。ところが師直兄弟を支持した尊氏は全く悪びれず、むしろ以前よりも尊大に直義に対して振る舞うようになります。この理解不能な尊氏の行動は、すでに紹介した通り、尊氏が自分に都合の良いほうに全ての物事を捏造した時の癖でした。尊氏は妄想力で直義と喧嘩して負けたのは師直兄弟だけであり俺は無関係、元々中立と思い込んでしまったのです。
直義からすれば
「あ、ありのまま今起きた事を話すぜ!俺は南朝に降伏して援助を受け師直と兄尊氏を攻撃して破った。そして師直兄弟を処刑して兄を京に呼び戻した。だが、兄貴はまるで自分が勝ったかのように論功行賞に口を挟み俺の家来を脅すような事をしたんだ…何を言っているのかわからないかも知れないが俺も分らねェ、だが、これは断じてハッタリじゃねェ。もっとたちが悪い尊氏ワールドを感じるぜ」
こんなジョジョな感じだったのではないでしょうか?
しかも、尊氏の妄想力は次第に他の御家人にも伝染していき、尊氏派に宗旨替えする御家人が続出。直義は勝利したにもかかわらず、直義派の御家人が殺害されたり暗殺されたりする事件が頻発。テロの圧力で再び政務からの引退を決意しました。
やがて尊氏は直義追討で南朝と連携し、追い込まれた直義は京都から逃亡。捕らえられて鎌倉に幽閉され急死します。尊氏による毒殺とも言われます。
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子孫に課題を山積みし尊氏死す
直義を滅ぼした後にも尊氏に安寧の日々はありませんでした。南朝は室町幕府の騒乱を見て和睦を放棄。宗良親王、新田義興・義宗、北条時行が大挙して鎌倉に押し込んできます。
尊氏は武蔵国へ退却、すぐに反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還します。一方で畿内でも南朝勢力が尊氏の子の義詮を破って京を占領。北朝の光厳、光明、崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し足利政権の正当性に危機が発生しました。
義詮は近江に逃れた後、八幡の戦いで京都を奪回。さらに佐々木道誉の策謀で後光厳天皇擁立に成功。辛うじて北朝が復活します。
しかし今度は、その佐々木道誉と対立し南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃。義詮はまたも敗れて京都を離れます。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに再び京都を奪い返しました。
正平9年/文和3年(1354年)は旧直義派による京への大攻勢を受け尊氏は京を放棄。なんとか直冬を撃退し京を奪還しますが直冬を打ち漏らしました。尊氏は九州の島津師久の要請に応じ、自ら直冬や畠山直顕、懐良親王討伐の為九州下向を準備しますが義詮の反対で取りやめます。
正平13年/延文3年(1358年)4月30日、足利尊氏は京都二条万里小路第で薨去。死因は背中の腫物であるようです。尊氏は、戦上手な割に京都も鎌倉も保持できず、子孫に南北朝の騒乱の解決を押し付けて逝ってしまいました。
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足利尊氏の性格
さて、こんないい加減な足利尊氏ですが、御家人にはカリスマ的人気がありました。尊氏と交友があった禅僧夢窓疎石は尊氏の性格的な特徴を3つにまとめています。ひとつは心が強く、合戦でどんな苦境にあっても口元には笑みを浮かべており、死を軽んじて少しも生に執着しなかった事。
ふたつめは、慈悲心が強く人を恨むという事を知らず、多くの仇敵でさえ赦し、しかも身内のように扱う寛大な大将であった事。みっつめは、金銭に執着する心がなく金銀でもゴミを捨てるように部下に恩賞として与えてしまい、少しも惜しまず気前の良かった事です。
特に恩賞については、手柄を報告しにきた御家人にその場で土地を与える下文を下す。いわゆるゲンナマ主義であり、尊氏に従い発奮しない武士はいませんでした。
ただ、金銭に執着しない尊氏は恩賞もドンブリ勘定であり、1つの荘園を複数の御家人に与えてしまい、それが度々続いて百年先まで幕府を悩ますなど、やはりいい加減さとはきってもきれません。また、死を恐れないという美点も危機になるとすぐに腹を切ると言い出すなど、デメリットとしても時折作用しました。
日本史ライターkawausoの独り言
源頼朝や徳川家康と違い、足利尊氏は室町幕府の開府後も延々と南朝や弟の直義派の反乱、あるいは佐々木道誉のような有力守護大名と他の守護大名との反目に振り回され、盤石な基盤を残せないままに死んでしまいました。室町時代が前半を南北朝、後半を戦国時代に取られて単独の時代は百年程度しかないのも、尊氏の責任が大きいと思います。
それでも、あれだけ京都、鎌倉を追われてもちゃんと返り咲くのは流石と言ってよく、人間諦めなければ、何かを成し遂げられるものだなと感心してしまいます。
また、恩賞を大盤振る舞いしたせいで、室町幕府はとにかく多額の恩賞で守護大名を釣る方針になり、努力すればデカい恩賞が狙える実力社会を築いたのも、尊氏の功績の1つかも知れませんね。
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