鎌倉時代、「一遍上人」が開祖で、踊り念仏などでも知られる仏教の宗派で「時宗(時衆)」があります。この時衆は、一般的には、当時の権力者だった鎌倉幕府の8代執権「北条時宗」により、一遍とその周りに付き添っていた僧団は弾圧されたという印象が強いのではないでしょうか。
しかし、意外にも、多くの武将や貴族にまで人気があり、帰依した人物が多くいたようです。調べてみましたので、ご一読ください。(※「時宗(時衆)」は、この記事では、以降「時衆」と記します。「北条時宗」と混同しないようにするためです。)
この記事の目次
一遍上人の「時宗(時衆)」は鎌倉武士になぜ人気だったのか?
時衆は、一遍の存命中、鎌倉幕府の執権の北条時宗により、弾圧された印象の強いのですが、それは幕府のあった鎌倉府近辺であって、他の地域では、それほどではなかったのではないかと思えてくるのです。しかも、貴族や武士との関わりが深かった印象なのです。さらに、鎌倉武士たちには、「禅宗」より「時衆」の方が、人気があったという説もあるくらいです。
その理由は、「大友頼泰」が一遍に帰依したことが大きな切っ掛けでしょうか。大谷頼泰と言えば、豊後国(現在の大分県)の守護を任され、武家の名門であり、
当時の鎌倉幕府の中で、重臣の立場で、「元寇」ときも活躍した武将です。後の戦国時代を生きた「大友宗麟」の祖先に当たる人物でした頼泰の代以降、大友氏は代々、時衆を信仰していたと伝わっています。鎌倉幕府の要職を務めた武将が帰依していた時衆でしたから、多くの武士たちに受け入れられたのは頷けます。
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源頼朝の重臣の子孫?歌人としても活躍した僧「頓阿」
一遍の死後、時衆の教団は分裂したようですが、分裂しても、それぞれの教団や遊行僧たちが独自に活動していたようです。中には、次のような僧侶も登場しました。鎌倉時代後期に生きた時衆の僧侶で「頓阿」という人物です。頓阿の俗名は「二階堂貞宗」とのことです。
鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の重臣「二階堂行政」の子孫だと言われていて、さらには、貴族の藤原家の子孫かもしれないとの説もありました。しかも、頓阿は、歌人としても有名でした。「兼好法師」とともに「和歌四天王」の一人にも選ばれています。また、勅撰和歌集の『続千載和歌集』(1320年[元応2年]成立)には、頓阿の和歌が44首も入選しています。
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甲斐源氏・武田氏の祖先と時衆の深いつながり
例えば、以下の和歌が有名です。
「つもれただ 入りにし山の 峰の雪 うき世にかへる道もなきまで」
現代語訳例
「ただただ積もれ 出家して入った山の 頂きに降る雪よ 浮世に帰る 道もなくなるまで」
他にも、時衆に帰依した鎌倉武士として、次のような人物も登場しました。一遍の一番弟子と伝わる「真教上人」が甲斐国(山梨県)に遊行した際に、「一条時信」という武将の帰依を受けたと言われています。さらに、時信の弟「宗信」は真教の弟子となったというのです。
ちなみに、一条時信の祖父は「一条信長(いちじょうのぶなが)」という人物で、一条氏の発祥とされます。
その「信長」の父は、「武田信光」となり、祖父は、「武田信義」になるのです。武田信義と言えば、源平合戦のとき、「源頼朝」と源氏の棟梁の立場を巡り争ったと伝えられていています。
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した人物です(演じたのは俳優は「八嶋智人」でした)。このように、名門と言われた武家出身の武将たちが、時衆に帰依したという記録が幾つも出てくるのです。
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足利尊氏ら室町幕府の歴代将軍による時衆の保護
そして、時代は下り、鎌倉幕府が滅亡し、室町時代に入ると、室町幕府の権力者たちにも時衆は支持されていたというのです。つまり、足利将軍家からの支持があったということです。
例えば、初代「足利尊氏」、3代「足利義満」、4代「足利義持」です。足利将軍家から、京都における時衆の拠点だった「七条道場(金光寺)」宛てに、何通かの文書が届いていたようです。それは寺社領を安堵する書状でした。つまり、足利将軍家に時衆の存在が認められていた訳です。
さらに、足利将軍の6代「足利義教」と15代「足利義昭」については、七条道場の住職との親交があったことが伺える内容の書状も残っていたとも言われています。
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武田信玄や徳川家康も寄進した戦国時代の時衆
室町時代後半、応仁の乱により日本国内が乱れ、戦国時代に入っても、時衆は武家からの厚い支持があったようです。幾人もの有名な戦国武将たちにも、時衆は支持されていたという史料も確認できました。
例えば、甲斐源氏の血を引く、甲斐国守護の「武田信虎」と「武田信玄」の親子、さらには、駿河国(現在の静岡県)守護の「今川義元」や、周防国(現在の山口県)守護の「大内義隆」なども支持したという説もあります。鎌倉時代に、甲斐の武田一族の流れを汲む者たちが真教に帰依しているので、戦国時代に、その縁戚ともなる武田信玄が支持していても不思議ではないと言えるでしょう。
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現在の価値で数千万円?信玄と家康による寺領寄進
ちなみに、武田信玄は、「清浄光寺」(神奈川県藤沢市にある時衆の寺院)に、寺領として「三百貫」を寄進したとの記録が残っています。(現在の価値では、3000万円前後になるでしょうか。)
また、「徳川家康」は、その清浄光寺に百石を寄進したとのことです。(現在の価値では、1000万円前後になるでしょうか)このように、源氏の末裔と言える甲斐武田家、足利将軍家や、その足利将軍の縁戚の今川家など、武家の中でも中央政権に影響力のあった一族が、時衆を支持していたことは、とても興味深いのです。
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豊臣秀吉・秀頼親子が時衆に帰依した2つの理由
そして、極めつけの史実として、戦国時代を終わらせた天下人「豊臣秀吉」と「豊臣秀頼」の親子が時衆に帰依したと記された記録もあるということです。慶長元年(1596年)頃とされています。
さらに、同じ頃、京都の東山五条に「豊国寺」という寺院が開山されたのですが、「遊行上人33世」の「他阿満悟」による創建なのだそうです「遊行上人」の名は、時衆の指導者の立場にあった僧侶が受け継ぐ習慣がありました。その遊行上人が豊国寺の住職となったのです。この豊国寺は、豊臣家と強い結びつきがあったと言われています。しかし、何故、秀吉は子の秀頼とともに時衆に帰依したのでしょうか?
考えてみたところ、いくつか理由が浮かびます。
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武家名門への憧れと貧しい出自ゆえの親近感
一つ目として、時衆は、源氏の血を引く武将たちや、足利将軍家など、名門の武家の権力者たちに支持されていたからでしょうか。秀吉は、通説では、百姓で小作人の出自だったと言われています。武家への憧れが強かったとも推察されます。そのような関係で、時衆を支持したかとも思われるのです。
二つ目の理由として、時衆は、開祖・一遍の存命のときから、多くの貧しい庶民たちに受け入れられていたという経緯があったということです。若き頃の秀吉は、百姓として貧しい生活を強いられた経験をしていました。貧しい庶民たちを救おうと活動していた一遍に対して、親近感があったのかもしれません。
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まとめ:江戸時代以降の時衆と豊国寺の変遷
秀吉の死後、「大坂の陣」が勃発し、徳川家康によって、豊臣家は滅亡に追い込まれ、江戸時代に入ると「豊国寺」は「法国寺」へと改称させられます。その後、1907 年(明治40年)には、時衆の寺院の「歓喜光寺」に併合されたのです。
日本史ライターコーノの独り言
歓喜光寺は「六条道場」とも呼ばれ、開山したのは一遍の実の弟の「聖戒上人」です。
歓喜光寺の所在地は、創建の鎌倉時代以降、室町から江戸、さらに明治から昭和にかけて転々としてきたのですが、現在は、京都市山科区に落ち着きました。

撮影:ライター_コーノ氏(2025年8月 著者撮影)
(画像:京都・歓喜光寺。一遍上人のゆかりの寺とされ、今も時宗の教えを伝えている)
【了】
【主要参考資料】
・『長楽寺蔵 七条道場 金光寺文書の研究』
(村井康彦・大山喬平 編)(法蔵館)2012年
・東京大学史料編纂所のWebサイトより
「法国寺(豊国寺)」について
・Webサイト『神殿大観』より
「法国寺 (豊国寺)」について
「清浄光寺」について
「京都七条・金光寺」について
・『三貫清水の会』Webサイトより三貫文について
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