今日の一言「NHK版『鎌倉どうでしょう?』」
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」カワウソも視聴していますが、なかなか面白いです。
歴史劇でありながらセリフを現代文にして分かりやすく感情移入させてくれますが、その中でも一番面白いキャラはやはり大泉洋が演じる頼朝でしょう。
大河ドラマ前半の中心的な役割を果たす頼朝ですが、その性格はどんなだったのでしょうか?ドラマの頼朝と似ている?それとも大きく違うのかを考えてみました。
女好きだったの?
大河の頼朝は、かなりのスケベとして描写されています。
伊藤祐親の娘八重姫と頼朝は元々ラブラブでしたが、その関係が祐親に知られて命を狙われ、頼朝は北条家に匿われます。
そこで北条政子と結ばれた事もあり、頼朝は八重姫とは二度と会わないと突き放していながら、石橋山の戦いに向かう前日には頭巾で顔を隠してまで会いに行っていました。
また、その後、政子が男児を妊娠している時に亀の前という女性を家臣の屋敷に囲い、逢瀬を繰り返すなど恋愛トラブルを繰り返しています。
この点は史実の頼朝も同じで、亀の前の事件は政子を激怒させ腹いせに家臣の屋敷を破壊する暴挙に及んでいます。嫉妬深い政子におびえながら、その後も頼朝は愛人を隠れてつくり続けるので、ドラマのスケベな頼朝は史実に近いと言えるでしょう。
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源頼朝は大ウソつきだったの?
大河ドラマの頼朝は、普段は源氏の御曹司として威張っていますが、必要とあれば平気で頭を下げウソをついてまで味方を増やそうとする調子のよい人物として描かれます。
挙兵が決まっても兵の集まりが悪いと見るや義時の進言を聞き入れ、自ら伊豆の豪族と面会して「この事は誰にも言わないで欲しいのだが、お前だけが頼りである」と涙を流して手を取り、肩を抱いて土肥実平などの味方を増やす事に成功しています。
呆れる義時に「嘘も誠心誠意つけばまことになるのだ」と頼朝は言いました。あの場面はギャグ仕立てになっていましたが、実際に鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には頼朝が似たような事をした描写があります。
大ウソつきといえばそれまでですが、勝つため生きのこるためにプライドを捨てなんでもできるというのは、すぐれた英雄の資質なのです。
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源頼朝は優柔不断だったの?
大河ドラマの頼朝は挙兵して平家を倒すという志はあるものの、全て北条氏任せで行動を促されても、なんだかんだと出来ない理由を言い優柔不断です。この部分は史実の頼朝とはかなり違います。
史実の頼朝は、たとえば山木兼隆の館を攻める時でも、館の図面や周囲の地形が分らないと攻めにくいので、藤原邦通という芸達者な男を呼んで兼隆に挨拶させ、歌や踊りなどを見せて、しばらく館に逗留しその間に山木邸の見取り図や周辺の地形をすっかり絵に描いて、頼朝に献上しました。
この見取り図があったから山木館奇襲は苦戦しつつも短時間で成功したのです。おそらく大河の頼朝の優柔不断は、大泉洋のキャラクター「水曜どうでしょう」などを参考にしてつくられたフィクションだと考えられます。
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愚痴が多かったの?
大河の頼朝は愚痴が多いキャラクターです。居候で自分では何もしない境遇でありながら、時政や宗時が楽天的である事に愚痴を言い、挙兵の為に兵が集まっても年寄が多いと「この戦負けるぞ」と愚痴を言い、石橋山で敗戦して洞窟に隠れている時も最後までついてきた時政や宗時、義時に対して、「北条を信じたわしがバカだった」と愚痴を言います。
まるで「水曜どうでしょう」ですが、史実の頼朝にも配下に愚痴を言っているシーンがあります。
1180年、8月13日、頼朝の配下、佐々木四兄弟が「渋谷郷から鎧兜を持ってきたいので数日ヒマをもらいたい。必ず16日までには帰ってきます」と頼朝に要求しました。
頼朝は17日の挙兵まで日がなく遅れたら挙兵が延期になると渋ります。頼朝が渋るのも無理ない話で、奇襲に参加する味方の人数は46名しかいません。ここから4名抜ければ10%近く味方が減るのです。
しかし、佐々木兄弟の決意が固いので頼朝は許し、渋谷郷を支配する渋谷重国宛てに味方になるように記した手紙を兄弟に託しました。
ところが出掛けた佐々木四兄弟は16日どころか17日の朝になっても戻ってきません。「4人も欠けては挙兵を延期しないといけないし、18日は殺生を誡めて読経三昧の日だから挙兵は出来ないし、19日では世間に挙兵が知られて遅すぎる」と頼朝は嘆きついには
「渋谷重国も佐々木兄弟も平家につく事に決めたに違いない。ああ、失敗した一時の激情で挙兵計画を佐々木に話してしまったのが悔やまれる」と愚痴ります。
17日の午後二時、ようやく佐々木四兄弟が疲れた表情で戻ってきます。頼朝は4人の姿を見て目に涙を浮かべて感激しますが「お前達の遅刻のせいで、今朝の戦が出来なかった。残念でならない」とまた愚痴です。それに対し兄弟は「洪水のせいで思いがけず遅れてしまいました」と頼朝に詫びています。このように史実の頼朝も、大河の頼朝並みに愚痴が多い人物でした。
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信仰心が篤かったの?
大河の頼朝は信仰心が篤く、八幡大菩薩を文机の上に置いて、絶えず読経をしている様子が見られ、また髻の中にも数センチの観音像を入れて自分を守ってくれるようにお祈りしている描写が出てきます。
史実の頼朝も吾妻鏡によると、非常に信心深い事が記されていて、髻の中に小さな観音像を入れていた事も文献として出てきます。また、戦場でも常に数珠を持ち歩いていたのが、石橋山の激戦で落としてしまい途方に暮れている所を、景親方で頼朝に同情的な飯田家義が探して頼朝に届けたという事も書かれています。
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源頼朝は弓の達人だったの?
大河ドラマ5話の「兄との約束」では、石橋山で大庭景親の軍勢に敗れ、同時に伊東祐親の軍勢に挟まれた頼朝が弓矢で何人もの敵を射殺している描写があります。普段の戦が苦手な「佐殿」らしくありませんが、吾妻鏡では以下のように頼朝が弓の名手であった事を記述しています。
武衛(頼朝)は馬首を巡らし、百発百中の芸をふるい、戦い続ける事度々。その矢は羽まで貫通しないものはなかった。射殺した者はかなりの数になる。
こうしてみると刀の腕前は不明ですが、弓を取っては頼朝がかなりの腕前だった事が分かります。
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日本史ライターkawausoの独り言
こうしてみると、大河の頼朝は、かなりの部分、史実を反映している事が分かります。
また、頼朝のパーソナリティである「残酷さ」も今回は紹介していませんが、かなり強烈なものである事を言っておきましょう。この部分も大河ではかなり忠実に反映されるのではないでしょうか?
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