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源頼朝はどうして平治の乱後に処刑されなかったの?【鎌倉殿の13人】


直垂を着用する源頼朝

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」前半の主人公は源頼朝(みなもとのよりとも)です。

 

ドラマでは大泉洋(おおいずみよう)が演じ、毎回のように後白河法皇(ご・しらかわほうおう)生霊(いきりょう)に一刻も早く京に上り、私を救えとせっつかれていますが、そもそも頼朝は平治の乱で破れ、父、義朝同様に処刑されるハズでした。しかし、何故か頼朝は処刑されず伊豆へ流されたのです。

 

これは一体、どんな理由によるものなのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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池禅尼の助命嘆願

おんな城主 直虎

 

従来、頼朝の助命には平清盛(たいらのきよもり)継母(ままはは)である池禅尼(いけのぜんに)の働きかけがあったと考えられてきました。池禅尼は清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)後妻(ごさい)保元(ほうげん)の乱では去就(きょしゅう)が定まらない伊勢平氏一門に対し棟梁(とうりょう)である清盛に従いなさいと叱責(しっせき)し、伊勢平氏はほぼ後白河天皇サイドについた事で勝利者となりました。

 

また、池禅尼には早死にした息子がいて、もしこの子が亡くならなければ平家の棟梁になっていた可能性もありました。禅尼は清盛に「頼朝殿は、なき我が子に生き写し」と言い、清盛に平氏の後継者になった時の負い目を思い出させます。

 

太政大臣に任命される平清盛

 

清盛は禅尼の嘆願を無視できず、頼朝を伊豆へ流して助命したのです。

 

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後白河法皇や統子内親王の働きかけ

斉明天皇(女性)

 

最近では、後白河法皇や法皇の准母(じゅんぼ)(義理の母)である鳥羽法皇の皇女(こうじょ)上西門院統子内親王(じょうさいもんいん・むねこ・ないしんのう)による助命の働き掛けもあったと考えられています。

 

平清盛が平治の乱で源義朝を破った背景には、元々義朝サイドにいた後白河上皇とその姉である上西門院を味方につけ、官軍の御旗を得た事が大きかったのです。

 

後白河法皇 天皇

 

この上西門院に仕えていた女房が頼朝の生母、由良御前(ゆらごぜん)でした。その関係で頼朝も幼い頃から上西門院の御所まで遊びにいき、上西門院は頼朝をとても可愛がっていたそうです。

 

平清盛 鎌倉幕府

 

「清盛殿、戦に出たと申しても、13歳の子供が鎧兜を着ていただけではないか。死罪などとは厳しすぎようぞ」上西門院からは、このような助命嘆願の運動が起き、姉の上西門院と仲が良かった後白河上皇も、さり気なく清盛に頼朝助命を働きかけたとされています。

 

後白河上皇は、政治的バランスに優れた人で河内源氏を一切朝廷から排除すると、すべての権限を伊勢平氏が握ると考え、持ち駒として頼朝に目をつけたとする説もあります。

 

これが正しければ、大河で法皇の生霊が頼朝の夢枕(ゆめまくら)に立ち続けるのも分かりますね。

 

政治に関心がない斎藤龍興

 

「お前を助けたのワシだよ?分かってる?恩を返してちょうだいよ」

後白河法皇は、そういう気分なのかも知れません。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

平治の乱と保元の乱の違い

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

また、平清盛は最初から頼朝を処刑する気はなかった説もあります。

 

保元の乱とセットで扱われがちな平治の乱ですが、その内容は大きく違います。保元の乱は鳥羽法皇崩御後(ほうぎょご)の天皇の地位を巡る後白河天皇と崇徳上皇(すとくじょうこう)の帝位を巡る戦いでした。しかし、平治の乱では後白河上皇と二条天皇が戦ったわけではありません。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

平治の乱は二段階に分かれていて、第一段階では上皇派にも天皇派にも嫌われた後白河上皇の乳父(めのと)信西(しんぜい)を排除するために両者が手を組み、後白河上皇の寵臣(ちょうしん)藤原信頼(ふじわらののぶより)に味方した源義朝や源光保(みなもとのみつやす)の勢力がクーデターを起こし信西を捕らえ首を切りました。

 

平治の乱①

 

 

第二段階では信西亡き後、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に振る舞うようになった藤原信頼とその軍事力である源義朝を排除すべく、二条天皇の側近、藤原経宗(ふじわらのつねむね)藤原惟方(ふじわらのこれかた)が中立の立場にいた平清盛に接近し信頼が監視下に置いていた二条天皇を御所から脱出させ、清盛の根拠地、六波羅に誘導。後白河上皇も仁和寺(にんなじ)に去りました。

 

平治の乱②

 

 

これにより、天皇と上皇を握った清盛は官軍となり、藤原信頼と源義朝を滅ぼします。しかし、保元の乱と違い、平治の乱は上皇の院近臣と天皇側近の勢力争いに過ぎず、清盛も最初から処罰の範囲を大きく広げなかったのです。

 

清盛が殺したのは義朝とその庶長子、義平だけであり、それ以下の義朝の子は仏門に入れる事を条件に助命していますので、清盛が河内源氏に対して強い態度で臨んだというわけではないようです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

源頼朝は、池禅尼や上西門院、乳母である比企尼のように多くの女性に救われて生き延びた人物のようです。頼朝が生まれつき持っている強運が、そのような尽くしてくれる女性を呼び寄せてしまうのか分かりませんが、果報者とは言えるでしょう。

 

その女性にモテモテの頼朝が正室の北条政子に自身の死後、鎌倉幕府を乗っ取られてしまうとは、歴史にまつわる因果を感じずにはいられませんね。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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