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三浦義村の墓とその秘密!歴史が語る幕府重鎮のゆかりの地

23/12/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

すぐに女性を口説こうとする三浦義村 修正a

 

 

三浦義村みうらよしむらと言えば源頼朝亡き後に北条家との激しくなる勢力争いにも生き抜き、鎌倉幕府かまくらばくふの宿老として重きをなした人物として知られていますね。

 

 

多くのライバルを陰謀で葬った三浦義村

 

 

謀反に誘われたり、親せきが裏切ったりもして、幕府への忠誠も疑われるような人物ですが、不思議とその危機も乗り越えることができています。今回の記事ではそんな三浦義村みうらよしむらの墓とゆかりの地を紹介していきましょう。まずは三浦義村みうらよしむらのプロフィールから。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鎌倉幕府の勢力争いを生き延びた重鎮

三浦義村 鎌倉

 

三浦義村みうらよしむら鎌倉幕府かまくらばくふで「13人の合議制」にも加わった「三浦義澄みうらよしみつ」の嫡男として生まれました。若いころは父と共に平家との戦いに転戦し、父の功績から官位を得ています。

 

梶原景時の失脚を目論む三浦義澄と三浦義村

源頼朝の死後は鎌倉幕府かまくらばくふ内で権力争いが激化。梶原景時かじわらかげとき結城朝光ゆうきともみつを陥れようと讒言しますが、逆に義村らは他の御家人の同意を得て景時を排除します。

 

畠山重忠と険悪だった三浦義澄と三浦義村

 

畠山重忠」に追討軍が出された際も義村は出陣して戦います。

 

反乱 モブ 戦争

 

また、親せきの「和田義盛わだよしみつ」が反乱を起こし、義村も一度は協力を約束するも裏切り、逆に義盛らを滅ぼします。

 

北条義時 vs 後鳥羽上皇(承久の乱)

 

朝廷との戦い「承久の乱じょうきゅうのらん」では弟の「胤義たねよし」が朝廷方に付くも義村は無視し、戦後は後鳥羽上皇ごとうばじょうこうらを配流するなど戦後処理にあたっています。北条義時ほうじょうよしじ北条政子ほうじょうまさこら幕府有力者が亡くなった後も「宿老」として幕府で重きをなしています。亡くなったのは71歳の時で、後鳥羽上皇ごとうばじょうこうの呪いだと噂されました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

南向院跡にある義村の墓

 

神奈川県三浦市かながわけんみうらし金田海岸かねだかいがん近くに「南向院跡なんこういんあと」があり、そこに三浦義村みうらよしむらの墓があります。南向院は「福寿寺ふくじゅじ」の子院(本寺に所属する小さな寺)でしたが、大正時代の「関東大震災かんとうだいしんさい」で倒壊し、その時に義村の墓は海に沈んでしまいました。現在の墓は後に作り直されたものです。今残る義村の墓の隣には海から回収した義村の旧墓のかけらを積み上げた五輪塔も残っています。江戸時代の記録によると、義村の元々の墓は2メートルを超える大きな墓だったようです。

 

 

 

 

所在地 神奈川県三浦市かながわけんみうらし南下浦町2014

アクセス 京急「三浦海岸駅みうらかいがんえき」からバスで「岩浦バス停いわうらばすてい」下車徒歩2分

 

 

三浦義村が開いた「福寿寺」

 

三浦義村みうらよしむらの墓の近くにある「福寿寺ふくじゅじ」は三浦義村みうらよしむらが開いた寺院と伝わっています。創建は西暦1200年で、寺には三浦義村みうらよしむらが実際に使っていたと言われる鞍、鐙、脇差などが残されています。この鞍にまたがると麻疹が軽くなるという言い伝えもあります。瓦屋根などには三浦一族の家紋である「三つ引」が多数あしらわれており、三浦氏の影響力を感じさせます。

 

大活躍する三浦義村

 

義村が「一の谷の戦い」に参戦し、道に迷った際に尊敬する「地蔵尊」が現れ、彼らを導いたという言い伝えがあり、この地蔵を義村は「勝軍地蔵」と呼んで福寿寺ふくじゅじ南の「南向院」に祀ったという事です。

 

 

 

所在地 神奈川県三浦市かながわけんみうらし南下浦町金田2062

アクセス 京急「三浦海岸駅みうらかいがんえき」からバスで「岩浦バス停いわうらばすてい」下車徒歩3分

 

 

三浦義村を祀る「近殿神社」

 

 

 

「近殿神社」は「ちかたじんじゃ」と読みます。こちらの神社は三浦義村みうらよしむらを祭神とする神社ですが、その創建や由来はよくわかっていません。こちらには三浦義村みうらよしむらの30センチほどの木像が安置されており、社殿の奥には三浦家の家紋が彫られた石祠も置かれています。

 

所在地 神奈川県横須賀市大矢部1-9-3

アクセス 満昌寺前バス停下車徒歩5分

 

 

三浦一族の本拠地だった「衣笠城跡」

 

三浦半島のほぼ中央に位置している山城で、本丸があったと思われる場所には「衣笠城跡」として石碑が建てられています。周辺は「衣笠山公園」として整備されており、横須賀屈指の桜の名所として知られています。

 

所在地 神奈川県横須賀市衣笠町

アクセス JR横須賀線「衣笠駅」から徒歩40分

 

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三浦義村の鎌倉の屋敷があった?「西御門」

吾妻鏡の表紙 書類

 

 

吾妻鏡(あずまかがみ)」によると三浦義村みうらよしむらの鎌倉の屋敷は、大倉御所(将軍の邸宅)の西門にあったと推定されています。ここは鶴岡八幡宮と大倉御所の間に位置する場所で、鎌倉の防衛においてとても重要な場所だったと考えられます。残念ながら現在は石碑が残るのみです。

 

 

 

所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目

アクセス 江ノ電「鎌倉駅」より徒歩15分

 

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源頼朝

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

三浦義村みうらよしむら鎌倉幕府かまくらばくふの実力者でありながら、あまり史跡は残されていません。しかし、墓は現在のものでも結構立派なもので、義村の権力を感じられます。北条家の史跡と見比べてみるのも面白いかもしれませんね。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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