三浦義村、親族裏切りの謎を解き明かす!親戚を裏切った真相とは?

16/11/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

三浦義村 鎌倉

 

 

三浦義村みうらよしむら」は源頼朝亡き後の鎌倉幕府かまくらばくふの激しい権力争いを生き抜き、最終的には幕府内において北条氏に並ぶ権力を手に入れた、と言われています。

 

 

すぐに女性を口説こうとする三浦義村 修正a

 

 

そんな義村ですが、勢力争いに勝つまでは決起した親せきに「裏切り」行為をして何とか生き延びたのです。今回の記事ではそんな三浦義村みうらよしむらの「裏切り」について調べてみましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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有力御家人の息子として生まれ、権力争いの中に

三浦義澄 鎌倉

 

 

三浦義村みうらよしむらは相模国の有力御家人「三浦義澄みうらよしみつ」の嫡男として生まれました。三浦義澄みうらよしみつは平家との戦いで活躍し、「13人の合議制」にも参加しています。

 

 

根っからの武人だったワイルドおじさん三浦義澄

 

 

義村は父の功績を譲られる形で出世し、のちに作られる鎌倉幕府かまくらばくふ内で地位を築いていきます。

 

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

 

源頼朝が亡くなった後は、北条氏と有力御家人たちとの権力争いが激しくなります。そんな中で「梶原景時かじわらかげとき」が「結城朝光ゆうきともみつ」を謀反の疑いで讒言し、困った朝光は義村に相談します。

 

梶原景時の失脚を見届け、安らかに病没する三浦義澄

 

 

義村は66人もの御家人たちの「梶原景時かじわらかげとき排除」の署名を集め、景時を失脚させることに成功します(景時は後に自害)。

 

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源頼朝

 

 

 

和田義盛と三浦義村

和田義盛 鎌倉殿の13人 武士

 

和田義盛わだ よしもりは義村と同じ三浦氏の一族であり、義村との関係は「いとこ」にあたります(両親が兄弟)。和田義盛わだ よしもりは平家との戦いで武勇をもって活躍し、平家を滅亡させた「壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい」ではその弓の実力で大活躍をしています。

 

和田義盛が希望していた侍所別当を任命した源頼朝

 

鎌倉幕府かまくらばくふ成立後はその功績から「侍所別当さむらいどころべっとう」の地位を与えられて、軍事をつかさどる立場になり、本家筋にあたる三浦家よりも上の立場になったとも言えます。しかし、欲しい官位を拒否されたり、「泉親衡の乱いずみちかひらのらん」では息子らが逮捕されるなど北条家との対立が激しくなります。

 

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和田義盛の決起に義村が同意?

和田義盛に意地悪をする北条政子

 

 

そしてついに和田義盛わだ よしもりは決起を決意、鎌倉では「和田義盛わだ よしもり謀反」の噂が広まり、将軍実朝しょうぐんさねともが真意を正したところ、義盛は「お上(将軍実朝しょうぐんさねとも)に恨みはない、ただ北条義時ほうじょうよしじの傍若無人が許せない。」と答えたそうです。

 

湯起請(日本の裁判)

 

和田義盛わだ よしもりが挙兵を決意すると、親戚で本家筋でもある三浦義村みうらよしむらもそれに協力することを約束し、「起請文きしょうもん」まで用意したと言います。「起請文きしょうもん」とは契約を結んで、神仏に契約を守ることを誓い、もし破った場合はその神仏から罰を受ける、という事を約束する文章の事です。

 

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三浦義村、土壇場で裏切る!

行政事務の全般を取り仕切った大江広元

 

 

和田義盛わだ よしもりの隣家の御家人は義盛の屋敷に兵が集結しているのに気が付き、「大江広元おおえひろもと」に通報します。そしてなんと、義盛に同調する、としていた三浦義村みうらよしむらが裏切り、北条義時ほうじょうよしじに義盛の決起を通報してしまったのです。

 

逃亡する兵士 日本史ver

 

義村は義盛を裏切り、逆に御所の警備を行うことになります。和田一族は三浦義村みうらよしむらの裏切りにあい、明らかに戦力がダウンしたと考えられます。彼らは奮戦しますが、結局は敗れ、和田一族は殆どが亡くなり、ほぼ滅亡してしまいます。三浦義村みうらよしむらがなぜ裏切ったのか不明ですが、元々義村が本家筋であるのに、和田義盛わだ よしもりが「侍所別当さむらいどころべっとう」という高い地位に登っていたのが気に食わなかった、という説があります。

 

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裏切りを揶揄される三浦義村

何を考えているのかわからない 智謀の士・三浦義村

 

この三浦義村みうらよしむらの突然の裏切りは当時の武家社会でも好感は持たれてなかったようで、あるエピソードがあります。将軍御所「侍の間」にて上座についていた義村でしたが、さらに上座に義村よりかなり若い下総の国武士「千葉胤綱(ちば たねつな)」が他の武士を押しのけて座ったのです。

 

多くのライバルを陰謀で葬った三浦義村

 

 

これに怒った義村が「下総の犬は寝床を知らんようだな!」と揶揄すると胤綱(たねつな)はこれに対し、「三浦の犬野郎は友達を食うようだな!」と言い返したと言います。これに対し義村は何も言い返せなかったのだとか。「友達を食う」とは義村が義盛を裏切ったことを揶揄していると考えられます。ちなみに当時三浦義村みうらよしむらは推定40歳後半、千葉胤綱はなんと15歳くらいだったとか。

 

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まだある三浦義村の裏切り疑惑

源実朝

 

親戚を裏切った三浦義村みうらよしむらですが、実はまだ「裏切り」の疑惑があります。それは3代将軍実朝しょうぐんさねともを2代将軍頼家の息子「公暁」が暗殺した時の事です。公暁は義村に「われこそは東国大将軍である、準備せよ。」と書状を送ります。

 

公暁(坊主)

 

義村は迎えをよこすと見せかけて彼を殺害するのですが、公暁の乳母は義村の妻であり、真っ先に公暁が義村の屋敷に走ったことから、「実は実朝暗殺は義村が影で糸を引いていたのでは?」
という疑惑があるのです。もし、それが本当であれば義村は鎌倉幕府かまくらばくふを裏切っていたことになりますね。

 

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日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

 

三浦義村みうらよしむらは裏切りの汚名を受けながらもなぜか北条氏の信頼を受けて鎌倉幕府かまくらばくふで生き残りました。このような経歴の武士は粛清されてもおかしくないのですが、天寿を全うしたことから見ると、義村は超有能な人か、北条家との関係がかなり深かったことが考えられますね。義村からは組織を生き抜く上での「したたかさ」を学べるのかもしれません。

 

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みうらひろし

日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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