今川家(戦国)

海道一の弓取りとは?海道を制する者は天下を制す

悪い顔をしている今川義元

 

海道一(かいどういち)弓取(ゆみと)りとは、今川義元(いまがわよしもと)徳川家康(とくがわいえやす)のような戦国武将の異名です。

 

今川義元の右腕として手腕を発揮する太原雪斎

 

海道とは東海道を意味し、弓取りとは弓矢で戦う者という意味で武士、転じて国持大名(くにもち)を指す言葉になりました。今川義元も徳川家康も、それぞれ海道沿いの国である駿河(するが)三河(みかわ)遠江(とおとおみ)の3カ国を領有していたので、海道一の弓取りという称号を得たのでしょう。

 

しかし海道という言葉には、ただ強者の称号というだけではない深い意味が存在しました。

 

元々は防人が通った軍事の道

邪馬台国と魏の兵士

 

歴史的地理学的な東海は、木曽三川(きそさんせん)と富士川の間の東海道沿線のうち、愛知県の全域と静岡県の富士川以西に当たり、畿内政権(きないせいけん)の領土になった三重県と関東の諸政権の領土になった静岡県東部とに挟まれた地域です。

 

現在では、日本でもメイン街道になっている海道ですが、律令制(りつりょうせい)時代の五畿七道(ごきしちどう)の時代は大陸との外交が主であったので山陽道が大動脈で、逆に当時の東海道は関東などの東国から畿内や北九州など西国の沿岸の防備に向かう防人の通行路で、文字通り東へ通じる海の道でした。

 

海道は、武人が通る道であり、その後も坂東武者など多くの荒武者が、ここを通って日本国中で戦いを繰り広げていく事になります。

 

海道を重視した鎌倉幕府

京都御所

 

戦国時代から江戸時代にかけては、特に木曽川と富士川の間は海道と称されていました。

 

平清盛 鎌倉幕府

 

海道は関東と畿内の廊下地帯として鎌倉時代以降、時の権力者に重視されてきた土地で源義朝(みなもとのよしとも)は平治の乱で平清盛(たいらのきよもり)に敗れた後に海道を通って坂東で再起を図ろうとしますが、海道の途中の知多(ちた)で裏切られ最期を迎えます。

 

義朝の子である源頼朝(みなもとのよりとも)は、自軍の主戦力である坂東武者の勢力圏を確保すべく富士川の東を鎌倉幕府の領地としました。海道は精強な坂東武者の供給源でした。

 

【蒙古が海からやってきた】
アンゴルモア合戦記の特集

 

富士川の合戦で復活した源頼朝

鎌倉時代の侍

 

石橋山の挙兵で平家に敗れた頼朝ですが、山の中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平(どひさねひら)の手引きで船を仕立てて真鶴岬(まなづるみさき)から安房国(あわのくに)へ向かい、上陸後に、部下の和田義盛(わだよしもり)千葉常胤(ちばつねたね)の元へ、安達盛長(あだちもりなが)上総広常(かずさひろつね)の元へ派遣しました。

 

これに応じて千葉常胤が300騎、上総広常が2万の大軍を率いて帰参しています。さらに、その後も諸国の兵が頼朝に集まり、総勢では25000余騎にまで兵力は拡大しました。

 

武蔵国に入ると、豊島清元(としまきよもと)葛西清重(かさいきよしげ)足立遠元(あだちとおもと)河越重頼(かわごえしげより)江戸重長(えどしげなが)畠山重忠(はたけやましげただ)らが続々と頼朝に従い頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、さらに甲斐源氏も合流し源頼義(みなもとよりよし)以来の河内源氏の本拠地鎌倉に入りました。

 

一時は300にまで数を減らした頼朝軍ですが、父の義朝がまとめてくれた坂東武者の合力を取り付け、兵の脱走が相次ぎ7万から2000まで数を減らした平家の追討軍、平維盛、平忠度、平知度の軍勢に40000もの大軍で対峙して、ほぼ戦わずに圧勝しました。富士川合戦の勝利は平家没落の象徴的な出来事になります。

 

あまたの合戦の舞台になった海道

軍旗

 

戦国時代になり戦国大名が乱立すると関東と畿内を繋ぐ回廊である海道では、巨大な勢力を持つ大名同士が衝突し、桶狭間の戦いや長篠の戦い小牧、長久手の戦いや関ケ原の戦いなど大規模な合戦が相次いで起きています。

 

経済政策が得意な織田信長

 

さらに、度々の戦いが起きた海道は人材の宝庫でもあり、尾張国と三河国の2地域からは織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)徳川家康(とくがわいえやす)の三英傑が出た他、江戸時代の藩祖となる多くの人材を輩出しました。

 

英傑を悩ませた木曽三川

荒れる黄河

 

また、東海の西限である木曽三川は、揖斐川(いびがわ)長良川(ながらがわ)木曽川(きそがわ)の3つで濃尾三川とも呼ばれています。かつて、この3本の川は下流部で合流と分流を繰り返し川幅も広く、度々水害を起こす難所でした。

 

oda-nobunaga(織田信長)

 

そのため、木曽三川の下流域での渡河は難しく、織田信長の伊勢侵攻も美濃から南下する作戦が取られています。天下統一に王手をかけた英傑信長も、木曽三川の流れは、避けて通るしかなかったのです。

 

このような状態なので、江戸時代に入ると、木曽三川は幾度となく改修が行われ、有名な治水工事には薩摩藩がおこなった宝暦治水とオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケらによる木曽三川分流工事があります。

 

今でも日本をリードする海道

 

東海地方は太平洋ベルト上に位置していて日本を代表する工業地帯が形成されています。この中で愛知県及び三重北部を中京工業地帯、静岡県の主に臨海部一帯を東海興業地帯と呼んでいます。

 

2007年度の東海4県の県内総生産の合計は69兆6929億円で、これは日本のGDPの約13%を占め、世界各国のGDPと比較しても20番以内にランクインしていて、アルゼンチンやサウジアラビアよりもGDPでは上位に位置します。

 

中京圏の中枢である名古屋市を筆頭にして、多くの工業都市が連なり産業と人口が集中している事で首都圏の中枢である東京都区部から近畿圏の中枢である大阪市にかけての都市群を東海道メガロポリスとも言います。

 

こうして考えると、日本は非常に繁栄した地域ですが、それだけにライバルも多く、戦国時代には激戦続きになった事が頷けます。だからこそ、海道を抑えた今川義元や徳川家康のような海道一の弓取りは戦国大名の中の戦国大名と呼べますね。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

今回は海道一の弓取りの語源である海道について解説してみました。海道に面する地域は気候も温暖で、海に面して海上輸送に適しているなど発展する余地があり、また、荒々しい坂東武者の産地で、武士の供給源としても著名でした。

 

それだけに海道を手中に収めたい勢力は多くあり、激しい生存競争を勝ち抜く必要がありました。今川義元や徳川家康は、そんな海道が産んだ名将なのです。

 

参考:Wikipedia他

 

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