NHK大河ドラマどうする家康15話は「姉川でどうする?」です。この戦いでは徳川家康の采配で浅井・朝倉連合軍を撃ち破り、窮地にあった盟友、織田信長を救う事になりました。今回は、姉川の戦いを簡単に分かりやすく解説します。
この記事の目次
織田信長、千草越えで岐阜に帰還
織田信長は、金ヶ崎より京都に戻ると、態勢を整えるべく、5月9日に岐阜に向けて出発します。その為には裏切った浅井氏の領地がある近江を通過しなければなりませんでした。朝倉義景は5月11日に朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に派遣して浅井氏と連携。さらに南近江まで南下して六角義賢とも連携して信長を挟撃しようとします。信長は、中山道を通過する事を断念し、千草越えを選択。伊勢、尾張を経由して岐阜に帰還しました。このあたりで、信長は完全に窮地を抜けたと言っていいでしょう。
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しんがりを引き受けたのは?
金ヶ崎の退き口では、木下藤吉郎が殿を務めたとされますが、実際に殿軍を率いたのは池田勝正のようです。理由は勝正の軍勢が3000と全体で3万人とされる幕府軍の1/10もいるからで、殿は池田勝正を主力に木下藤吉郎や明智光秀、徳川家康などが共同でやったと考えるのが妥当でしょう。
また、金ヶ崎の退き口では信長の妹の市が送り届けた、両方の口が縛られている小豆の袋がヒントになり、信長は退却を決意したとされますが、それは江戸時代の創作で一次資料には出てこないそうです。
信長、国境を越え北近江に侵攻
信長はすぐ反撃に転じ、6月4日に野洲河原の戦いで六角義賢軍を破ります。これに対し、浅井・朝倉連合軍は美濃の垂井と赤坂周辺に放火すると、国境いの長比や苅安賀といった城砦を修復して兵を入れ織田軍の来襲に備えました。しかし、朝倉軍が越前に帰ると長比や苅安尾は織田軍の調略で城主が寝返り陥落。信長は6月19日に岐阜を出て、その日のうちに長比城に入城します。
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織田・徳川連合軍、竜ヶ鼻に布陣
6月21日、北近江に侵攻した信長は、虎御前山に布陣。配下に命じて、小谷城の城下町を焼き払い長政を挑発します。翌6月22日には一旦後退し、6月24日小谷城とは姉川を隔て南にある横山城を包囲し信長自身は竜ヶ鼻に布陣しました。ここで徳川家康が織田軍に合流し竜ヶ鼻に布陣します。浅井方にも朝倉景健率いる8000の援軍が到着し小谷城の東にある大依山に着陣、ここに浅井長政の兵5000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13000となりました。
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姉川の戦い始まる
6月27日、浅井朝倉連合軍は大依山を陣払いしますが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分け野村と三田村にそれぞれ布陣します。織田と徳川連合軍も軍を二手に分け、徳川勢が西の三田村へ向い、野村には信長の馬廻衆及び西美濃三人衆が向かいました。
合戦は、6月28日、午前6時頃に始まります。浅井軍も姉川に向かって進出。狭い範囲で両軍兵士がひしめき合い大激戦となりましたが、徳川家康は浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを勝機と見て、榊原康政に側面から攻めさせました。この計略は的中し、朝倉軍が敗走、続いて浅井軍が敗走し織田徳川連合軍が1100あまりの首を挙げて勝利します。
信長は、浅井軍の追撃に転じ、小谷城から50町ほどの距離まで迫りますが、小谷城を一気に落とすことは難しく、周囲の町を焼き払った上で横山城下へ退却します。まもなく横山城は陥落し、信長は木下秀吉を城番として配置。姉川の戦いは終結します。
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姉川の戦いの敗戦が浅井・朝倉没落を決定づける
姉川の戦いは、浅井、朝倉氏に深刻な被害を与えました。浅井長政は重臣遠藤直経や実弟浅井政之など、浅井家の躍進に貢献していた重臣を多く失いました。大きな原因は、浅井・朝倉連合軍が殿を置いて撤退する余裕がなく潰走した為です。
浅井・朝倉軍は単独で織田信長と対峙する不利を悟り、比叡山の僧兵や石山本願寺の一向一揆と手を結び包囲網を築いていきます。そのため、信長は浅井・朝倉に味方する勢力を敵と見なし、中立要請を無視した比叡山延暦寺に対し焼き討ちを仕掛けます。しかし、本願寺勢力は手ごわく、ここから10年間も石山合戦が続きました。
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信長は同時に浅井氏の勢力分断で孤立した近江佐和山城主の磯野員昌と浅井長政との離間工作に出て成功。弱体化した浅井・朝倉氏は、今度は信長と不和になった足利義昭を抱き込んで、甲斐の武田信玄に上洛させるなど、信長に最大の危機をプレゼントします。
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日本史ライターkawausoの独り言
以上、姉川の戦いまでを簡単に分かりやすく解説しました。浅井朝倉にとって痛かったのは、徳川勢の横からの襲撃に耐えきれず、殿も置けずに敗走してしまった事でした。しかし、そのために、早い段階から自分達だけで信長に立ち向かう無理ゲーに気づき、せっせと信長包囲網を築いて、信長を窮地に追い込むわけなので、信長にとっては姉川の大勝は、よいとばかりは言えないようです。
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