2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」です。
徳川家康といえば、僅か3歳で父が母と離婚して母と離れ離れになり寂しさの中で幼少期を過ごすイメージがあります。この家康の生母が於大の方で家康に劣らない波乱万丈の生涯を過ごした後、三河の大名となった家康と再会し幸福な晩年を過ごすことが出来た女性でした。
この記事の目次
緒川城主水野忠政の娘として誕生
於大の方は享禄元年(1528年)緒川城主水野忠政の娘として誕生します。
水野氏は尾張知多郡の国人でしたが、隣国の三河にも所領があり忠政は所領を守るために、今川陣営に属する三河の大名、松平広忠と手を結ぼうと考え14歳になった於大を嫁がせます。こうして翌年誕生したのが家康でした。
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兄が織田家に寝返り松平広忠から離縁される
しかし、家康が3歳になった頃、忠政は病死し、子の水野信元が緒川城主となると、信元は今川氏を見限り織田家に通じるようになります。この事を知った広忠は戦慄します。信元は義理の兄であり、今川義元が広忠も織田家に通じているのではないかと疑う恐れがあったからです。
広忠はやむなく於大と離婚し緒川城へ帰しました。3歳の家康は嫡男なので岡崎城に残り、母と子は離れ離れになります。
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信元の命令で家臣の久松俊勝に嫁ぐ
於大はその後、兄信元の意向で知多郡阿古居城主、久松俊勝に嫁ぎました。家康と離れ離れになった於大の方ですが、家康への情愛を捨てたわけではなく、定期的に家康に贈り物や手紙を出していたようです。幸い俊勝との仲は良く於大は家康の異父兄弟3人を産みます。
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家康が戦国大名として独立し久松氏を家臣とする
本来ならこのまま会うことがなかったであろう母子ですが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、織田家の勢力が東へ伸びた事で状況が変化しました。家康は今川家からの独立を考えるようになり、名前を松平家康と改めると織田信長と同盟を結びます。その後、三河を実効支配した家康は久松俊勝と3人の同母兄弟を家臣として迎え、於大の方は成長した家康と再会しました。
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兄、水野信元が信長の命令で家康に殺される
ドラマなら、ここで於大の方は家康や夫、息子たちと幸福に暮らしましたとさ…となりそうですが現実は残酷でした。天正3年1月、織田信長が於大の兄である水野信元が武田勝頼に内応していると疑いを持ったのです。
信元は申し開きをするも聞き入れられず、元の家臣の久松俊勝を頼り家康に匿ってもらおうとしました。家康にとって信元は母の兄で身内でしたが、信長に睨まれては徳川家の存続が危ういと考え信元と養子の元茂を殺害しました。この事は家康の義父である久松俊勝には伝えられてなく激怒した俊勝は西郡城に隠居してしまいます。
さらに、家康の家臣にならず尾張国の久松家の所領を継いでいた久松信俊も謀反を疑われ大坂四天王寺で自害に追い込まれ、所領は信長に没収されました。
愛息に兄を殺された於大の方の心情はどのようなものだったのか、それが分かる史料は残されていません。その後、夫の久松俊勝が死去した事で於大の方は菩提寺の安楽寺で出家し伝通院と号します。
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これ以上息子を酷い目に遭わせないで!
本能寺の変の後、家康は信長の後継者となった羽柴秀吉と激突、小牧・長久手の戦いが勃発しました。戦後、秀吉は家康と誼を通じようと、於大の子である松平定勝を自分の養子に迎えたいと言い出しました。
家康も乗り気でしたが、定勝の生母、於大の方は珍しく猛反対しました。その理由は、於大の次男の松平康俊が他家の人質となって酷い目にあっていたからです。
康俊は、家康の命令で今川氏真の人質になった後、三浦与一郎という今川の家臣に騙され武田信玄の人質として売られました。その後、康俊は無事にげる事が出来ましたが、雪山を逃げる途中に凍傷にかかり、両足の指を失う障害を負ったのです。ここで、さらに末っ子の定勝を秀吉の人質にされては今度は足の指では済まない、どんな酷い目に遭うか分からないので、どうあっても承知しないと頑張ったのです。
これには親孝行の家康もとうとう諦め、自分の次男の結城秀康を秀吉の養子に差し出しますが、代わりに松平定勝は、しばらく家康に疎んじられたそうです。
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家康が江戸に幕府を開く前年に死去
於大はその後も長生きし慶長7年には、後陽成天皇や秀吉の正室高台院に面会。豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示しました。
その年、於大は体調を崩し、京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去します。享年は74歳。家康も14年後、於大の方と同じ74歳で世を去っています。最愛の息子と引き離され、実の兄を息子に殺されるなど波乱万丈の人生でしたが、最後は最愛の息子、家康や多くの子供、孫、曾孫に囲まれ、戦国を生きた女性としては幸福に包まれて生涯を閉じたと言えるでしょうか?
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は家康の生母、於大の方について解説しました。
天下人家康の母だけあり、波乱万丈の人生でしたが当人に与えられた福徳か息子たちについては、殺されたりするような事がないのが救いでしたね。
参考:
NHK大河ドラマ歴史ハンドブック どうする家康: 徳川家康と家臣団たちの時代 (NHKシリーズ) ムック / 2022/11/30NHK出版 (編集)
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