戦国武将のなかでも、ひときわ濃い「悪役」のオーラをまとった人物がいます。それが、松永久秀(まつなが・ひさひで)です。あの織田信長に仕えながら、二度までも反旗をひるがえし、最後は名器の茶釜とともになんと「自爆死」をした!そんな伝説で語り継がれてきた人物です。
はじめて松永久秀の名前をきいた人でも、ここまでの話でさっそく興味を惹かれたのではないでしょうか?「織田信長に『二度』背いた?ということは・・・」はい、そうなのです。見方を変えれば、あの織田信長に、「一度は許された」男なのです。
この記事の目次
- 松永久秀はなぜ「裏切り者」と呼ばれるのか?
- 戦国三大梟雄としてのイメージと「三悪事」
- 織田信長が語ったとされる久秀の異常性
- 一度目の裏切り:足利義昭の「信長包囲網」への参加
- 謀反の理由① 武田信玄の脅威と情勢判断
- 降伏と許し:なぜ信長は多聞山城の献上で許したのか?
- 決定的な二度目の裏切り:本願寺・上杉との連携
- 謀反の理由② 宿敵・筒井順慶への優遇に対する不満
- 謀反の理由③ 上杉謙信の動向と勝機の見極め
- 信貴山城の決戦と名器「平蜘蛛茶釜」の行方
- 信長が突きつけた「茶釜を渡せば命を助ける」という条件
- 久秀はなぜ茶釜を差し出すことを拒んだのか?
- 壮絶な最期:日本史に残る「爆死」伝説の真相
- 本当に爆弾で吹き飛んだのか?最新の歴史研究による見解
- 己の美学とプライドを貫いた最期の姿
- 現代の視点で見る、松永久秀という生き方の魅力
- 日本史ライターYASHIROの独り言
松永久秀はなぜ「裏切り者」と呼ばれるのか?
今回は近年の研究もまじえながら、とにかく「裏切り者」「梟雄」というレッテルが貼られがちな松永久秀という人物の生きざまを追っていきたいと思います。
戦国三大梟雄としてのイメージと「三悪事」
まず松永久秀といえば、斎藤道三や北条早雲らと並んで「戦国三大梟雄(きょうゆう)」に数えられる人物です。「梟雄」とは、フクロウのように荒々しく、才に長け、悪辣な手段をも選ばない冷徹な人物を指す言葉です。松永久秀の場合、「悪辣な英雄」と呼ばれるにふさわしい事績を、その生涯において三度行っています。ひとつめは、主君である三好家を乗っ取ったことふたつめは、室町幕府十三代将軍を暗殺したことみっつめは、東大寺の大仏殿を焼いたこと主君を殺し、将軍を殺し、ついでに世界遺産(!)を焼いたとなれば、インパクトとしても戦国時代随一の悪役と扱われて、仕方ないのではないでしょうか。
織田信長が語ったとされる久秀の異常性
ただし、松永久秀の事績を「三悪事」と呼ぶのは、あくまで後世、江戸中期の軍記物『常山紀談(じょうざんきだん)』をもとにした言い方です。『常山紀談』に載っているのは、こんなエピソードです。「織田信長が徳川家康に久秀を引き合わせたとき、信長は久秀を指してこう言った。
『この老人は、常人には一つもできぬことを三つもやってのけた。主君を殺し、将軍を殺し、対物を焼いたのだ』。そう紹介された傍らの久秀は赤面した」いかにも江戸時代の軍記物に好まれそうなエピソードですよね。実際にこのような場面が、織田信長と徳川家康と松永久秀が同席している場で交わされたかとなると、いささか信じがたい話ではあります。ですが、松永久秀が織田信長に仕えていた時期があるのは本当のことです。
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一度目の裏切り:足利義昭の「信長包囲網」への参加
松永久秀は、織田信長が上洛した際、真っ先に従った武将でした。その折には、お土産として名物・九十九髪茄子(つくもがみなす)を献上しました。茶器好きの信長にこうして気に入られたことで、大和国(現在の奈良県)の支配を認められます。ですが、ここで久秀がすぐさま恭順の姿勢を見せたのも、この梟雄なりのしたたかな裏切り人生の中の、あくまでワンシーンにしかすぎませんでした。この後、織田信長の形勢に陰りが見えると、久秀はあっけなく寝返りを開始するのです。
謀反の理由① 武田信玄の脅威と情勢判断
一度目の裏切りは、将軍義昭が信長と対立し、各地の大名に呼びかけて「信長包囲網」が築かれたときのこと。
とりわけ世の大名たちを動揺させたのが、最強と謳われた武田信玄の上洛開始でした。「東から信玄が攻め上がるなら、信長の天下は危うい」おそらく久秀はそう情勢を見抜き、反信長陣営へと身を投じます。
降伏と許し:なぜ信長は多聞山城の献上で許したのか?
しかし信玄は進軍の途上で病没し、包囲網は一気にしぼみます。まさかの信玄死亡で、たちまち形勢が悪くなったのが、松永久秀です。ところが、ここでも久秀はしたたかさを見せました。すかさず織田信長に恭順の姿勢を見せ、居城・多聞山城を明け渡すことを条件に降伏を申し入れたのです。意外にも、信長はこれをあっさり許しました。多聞山城は当時最先端の天守建築をそなえた施設。そして久秀は築城・行政に通じた稀有な実力者でした。「捨てるには惜しい」と思わせるだけの才を、人材重視の信長は確かに認めており、できれば引き続き自分の味方としてその才能を使いたかったのでしょう。
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決定的な二度目の裏切り:本願寺・上杉との連携
このようにして許された松永久秀、いくら裏切りの名手とはいっても、このように寛大な処分を受けたからには、もう覚悟をきめて、信長殿に生涯ついていくことにする・・・のが普通の「裏切り者」!ですが、松永久秀は、これでもなお、おとなしくはなりませんでした。時期から見ても、既に織田信長が天下取りにリーチをかけ始めており、この段階で裏切りを画策するよりは、その優秀な幕下の一人として手柄を立てまくったほうがオトクだと思うのですが。しかしそうしないのが、松永久秀のすごみであり、ある意味、不思議な個性です。
謀反の理由② 宿敵・筒井順慶への優遇に対する不満
松永久秀の中でくすぶっていた反意の一因は、同じ大和国にいる筒井順慶(つつい・じゅんけい)という長年の宿敵を、織田信長が重用していたことにあるともいわれています。自分の力で大和国周辺を切り取ってきた久秀にとって、筒井順慶が目の上のたんこぶのように見え、自分こそが大和国最大の実力者になりたかったのでしょう。もっとも、その筒井順慶を排するためには、そもそも自分たちの主君である織田信長そのものを倒すべきである、と考えるスケールが、さすがは松永久秀です。
謀反の理由③ 上杉謙信の動向と勝機の見極め
そんな久秀がチャンスと見たのが、天正五年、上杉謙信が手取川の戦いで織田軍を破ったとの報でした。
この時期、石山本願寺も、依然として信長と争い続けています。そして本願寺と上杉家の間で、反信長で共同戦線を張る連携も少しずつ、機運が出来上がっていました。「この調子で謙信が南下し、本願寺と呼応すれば、信長を挟み撃ちにできる」ここに勝機ありと見た久秀は、本願寺攻めの陣を離脱し、居城・信貴山城に立てこもって信長に槍を向けます。武田信玄の上洛の報の時と同じく、またしても、「勝ちそうなほうに賭ける」彼のギャンブル癖が露骨に出たのでした。
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信貴山城の決戦と名器「平蜘蛛茶釜」の行方
しかしこの時の久秀の行動は、さすがに無理がすぎました。準備として、もしかすると、ひそかに本願寺や上杉家に連絡を送っていたのかもしれませんが、そうはいっても、大和国でいきなり反乱を起こせば、怒った信長が真っ先に征伐対象として襲ってくることは必定であり、しかもその場合、本願寺勢力や上杉勢力と領土を接しているわけでもない大和国は、陸の孤島となって各個撃破されることになります。
信長が突きつけた「茶釜を渡せば命を助ける」という条件
信長は嫡男・織田信忠を総大将に、四万ともいわれる大軍で信貴山城を包囲しました。さすがに多勢に無勢、勝敗の行方は誰の目にも明らかでした。このとき信長は、久秀がかねて秘蔵していた名器・古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)の茶釜を所望し、「それを差し出せば命は助ける」と持ちかけたと伝わります(ただし、この逸話の出どころもまた江戸期の軍記物なので、史実ではない伝説の可能性も高いのですが)。
久秀はなぜ茶釜を差し出すことを拒んだのか?
伝えられるところでは、久秀はこの申し出をきっぱり拒んだそうです。命と引き換えにしてでも、信長には渡したくなかった、と。信長に渡すくらいなら、破壊してしまおう、と。かつて九十九髪茄子は気前よく献上した久秀が、平蜘蛛だけは命にかえても手放さなかったというのは、やや意外です。このあたり、やはり、ただのリアリストというわけでもない、なんとも複雑な個性の人物ですね。
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壮絶な最期:日本史に残る「爆死」伝説の真相
かくして、松永久秀の有名なエピソード、「平蜘蛛に火薬を詰め、茶釜もろとも爆死した」という逸話に至ります。しかし、この派手な爆死も、史実であると裏づける史料はありません。これもまた、あくまで伝説です。
本当に爆弾で吹き飛んだのか?最新の歴史研究による見解
比較的信頼性の高い『信長公記』では、久秀が天守に火をかけて自害したされています。また別の記録では、「平蜘蛛をみずから叩き割った」ともあります。天守に火をかけて自害した、という話と、平蜘蛛をたたき割ったという話とがミックスされ、どこかで、「平蜘蛛に火薬を詰めて自爆した」という派手な伝説に膨れ上がった、というところでしょうか。もっとも、このあまりにも有名な伝説、正確な歴史上の事実でないとしても、「松永久秀」のキャラクターとして強く人々の心に焼き付いてしまっておりますが。
己の美学とプライドを貫いた最期の姿
爆死でこそなかったにせよ、その最期が壮絶だったことに変わりはありません。享年六十八。当時としては大変な高齢でした。偶然にも、自害の日は東大寺大仏殿が焼け落ちたちょうど十年後の同月同日。兵たちは「神罰だ」とささやいた、と『信長公記』は伝えます。戦国時代の生き残り戦略という意味では、松永久秀はここで脱落したのですが、あまりに壮絶な生き様が、「後世に名を残す」という意味では、大成功だったかもしれません。まさに、悪名は無名に勝る、です。
現代の視点で見る、松永久秀という生き方の魅力
なお、近年の研究によって、久秀像は大きく見直されています。三悪事のうち将軍殺しの現場に久秀はいなかったとか、大仏焼失もただの失火説が有力とか。主家乗っ取りも、権力の空白をめぐる内部抗争という色合いの中でのことで、戦国の世ではよくある話にすぎないレベル、とか。そもそも日本史上における久秀は、寺社勢力がひしめく複雑な大和国を粘り強く治めた行政家です。並みの能力の持ち主であったはずはなく、部下たちの信望もあった有力者だったのでしょう。その苛烈な生き様が、「三悪事を働いた悪人」という属性を、江戸時代に勝手につけられてしまった、というところでしょうが。
日本史ライターYASHIROの独り言
このように松永久秀をまとめると、その実像はかなりわかりにくく、後世に付与されてしまったイメージばかりが独り歩きしているように見えます。とはいえ、正直、私自身も、「松永久秀といえば、三悪事を働き、すぐに裏切り、最後には茶器に火薬をつめて自爆する老人」であり続けてほしいと思っています。歴史学が解き明かす史実は史実として受け止めつつ、長らく民衆に伝わってきた「伝説」のイメージもそれはそれで大事にしたい、それが歴史ファンの在り方なのかなとあらためて思いましたが、いかがでしょうか?
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