畠山重忠、鶴ヶ峰での壮絶な最期!伝説の真実

29/12/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

畠山重忠

 

 

畠山重忠はたけやましげただ」(はたけやましげただ)は源頼朝みなもとのよりともとともに鎌倉幕府かまくらばくふ設立に大いに貢献した武将として知られています。数々の功績を残した畠山重忠はたけやましげただでしたが、その最期は悲しいものでした。今回の記事ではそんな畠山重忠はたけやましげただの生涯と、彼が亡くなった「鶴ヶ峰つるがみね」周辺の畠山重忠はたけやましげただ関連史跡についても紹介していきましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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当初は頼朝討伐に向かうものちに降伏

源頼朝に降伏して御家人となる畠山重忠

 

 

畠山重忠はたけやましげただは平家の家人であった畠山氏の跡継ぎとして生まれました。源頼朝みなもとのよりともが平家打倒のために挙兵すると、重忠は若干17歳ながら兵を率いて頼朝討伐に赴き、源氏に味方した「三浦氏みうらし」を戦で破ります。最初の挙兵では失敗した頼朝でしたが、のちに再度挙兵、その大軍に重忠は降伏し、のちは頼朝の御家人として使えることになります。

 

 

平家との戦いで活躍する

坂東武士に胴上げされる源頼朝

 

 

頼朝に従ったのちは、平家との数々の戦いに従軍します。宇治川での戦いでは川を渡る際に馬を射られてしまった重忠は、同じく馬を失った「大串重親おおくしじゅうしん」を怪力で岸に放り投げ、自らは徒歩で川を渡り一番乗りを名乗るという逸話を残しています。

 

坂東武士を次々と斬り殺す巴御前(女性)

 

また、源義仲との戦いでは義仲の妻「巴御前ともえごぜん」と一騎討ち、重忠は巴御前ともえごぜんの鎧を引きちぎり、これを破っています。「一の谷いちのたにの戦い」では源義経が鵯越ひよどりごえで「逆落とし」を決行する際に馬を失うことを憂慮した重忠は、馬を背負って坂を下るという見せ場があります。

 

 

源平盛衰記 書類

 

 

これらの重忠のエピソードは彼の人並外れた怪力を示すものですが、出典は「源平盛衰記げんぺいせいすいき」という「軍記物語(ぐんきものがたり)」であり、実話だったかは不明です。

 

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平家滅亡後も幕府に貢献

鎌倉を拠点にした源頼朝

 

 

壇ノ浦だんのうらの戦い」で平家は滅亡し、源頼朝みなもとのよりとも鎌倉幕府かまくらばくふを成立させます。重忠はその後も戦い続け、奥州藤原氏おうしゅうふじわらしとの戦いにも従軍、頼朝の死後も反乱の討伐や揉めた御家人たちの仲裁に入るなど、いろんな面で活躍をしています。

 

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北条義時

 

 

 

謀反の疑いをかけられる

りく(牧の方) 女性 鎌倉殿の13人

 

 

しかし、息子の「重保しげやす」が北条時政ほうじょうじせいの後妻(牧の方まきのかた)の娘婿と酒宴でもめ事を起こしてしまいます。牧の方まきのかたはこれに怒り、なんと時政に重忠を謀反の疑いで討つように進言します。重忠の名声は高かったため、周囲は重忠の謀反を信じてはいませんでした。

 

2代目執権に就任する北条義時

 

 

しかし、牧の方まきのかたが時の権力者「北条義時ほうじょう よしとき」に迫り、彼はしぶしぶ重忠の討伐を命じてしまいます。御家人たちの間で「誰かが謀反を起こしたらしい」という噂が広まり、御家人たちは「由比ガ浜」に集まります。その中に重保しげやすもいて、自分が謀反の疑いをかけられていることをそこで知り、囲まれた重保しげやすは戦死してしまいます。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

重忠、無念の死

謀反の疑いで挙兵に追い込まれる畠山重忠

 

その時、重忠は自身の知行地の武蔵の国にいました。自分の息子が殺されたことは知らず、「鎌倉で謀反が起きたらしい」という噂を聞き、自身も鎌倉に向かいます。しかし「二俣川」で討伐軍の軍勢に遭遇、そこで重忠は自身が謀反人になっていることを知ります。周囲は一度兵を引き、軍を整えることを進言しますが、重忠は潔く戦うことを決意します。

 

行政権を握り敵が多くなった北条義時

 

 

重忠は少数の家臣とともに4時間もの激戦を繰り広げますが、重忠は矢によって戦死してしまいます(自害説もあり)。その後、北条義時ほうじょう よしときは重忠の無罪を知り、涙を流したと言います。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

重忠の史跡①斬られた首を祀る「首塚」

 

 

 

横浜市旭区には重忠の首が祀られている「首塚」があります。小さなお堂ですが、解説も添えられ、近くにはその首を洗ったという「首洗いの井戸」もあります。

 

場所 横浜市旭区鶴ヶ峰つるがみね1丁目3-7

アクセス 鶴ヶ峰つるがみね駅徒歩5分

 

 

重忠の史跡②重忠の功績をたたえる「畠山重忠公碑」「さかさ矢竹」

 

 

首塚から少し歩いたところに「畠山重忠はたけやましげただ公碑」が建てられています。これには重忠の功績が彫られており、畠山重忠はたけやましげただ没後750年を記念して昭和30年に建てられました。そのそばには「さかさ矢竹」があります。これは重忠が矢を受けた際、「わが心が正しければ、この矢に枝葉を生じ繁茂させよ」と言って矢を地面に突き立て、その矢がどんどん茂っていったというエピソードに基づいています。本物の「さかさ矢竹」は消滅してしまったようですが、有志が現在の地に植えなおしたそうです。

 

場所 横浜市旭区鶴ヶ峰つるがみね本町1丁目1

アクセス 鶴ヶ峰つるがみね駅北口徒歩8分

 

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

畠山重忠はたけやましげただは勇猛なエピソードが豊富な勇将ですが、その強さゆえに悲劇的な最期を迎えたのかもしれませんね。そんなに有名な武将ではありませんが、各地に史跡が残っており、人々に慕われていたことが伝わってきますね。

 

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源頼朝

 

 

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日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

-鎌倉時代
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