空誓は浄土真宗本願寺派中興の祖である本願寺蓮如の曾孫にあたる僧侶です。彼が19歳で三河の本證寺住持になった時に起きたのが、三河一向一揆で伊賀越えや三方ヶ原の敗戦に並び、家康を苦しめた戦いとして知られています。今回は一揆の指導者空誓と三河一向一揆について解説しましょう。
三河一向宗とは何?
三河一向宗は本證寺(安城市野寺町)上宮寺(岡崎市上佐々木町)勝鬘寺(岡崎市針崎町)の三ヶ寺が勢力拠点です。一番歴史が古いのが勝鬘寺で1256年親鸞の孫弟子顕智に帰依した信願房了海が碧海荘赤渋に建立した道場を始まりとする説や、1258年親鸞の矢作説法を聴き、天台宗から改宗した信願房了海が建立した道場を最初とする話がありますが、いずれにせよ三河で一番古い浄土真宗のお寺です。
15世紀の中頃、本願寺5世綽如上人の分流の了顕が9世住職として勝鬘寺に入寺してから隆盛をきわめますが、1496年に水害に見舞われ現在地に移動しました。
こちらもCHECK
-
寺内町の歴史と成り立ちを解説。城壁のような寺は戦国時代に実在した?
続きを見る
家康を苦しめた三河一向宗の脅威とは?
三河一向一揆の中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺でしたが、一気に呼応して家康に抑え込まれていた三河吉良氏のほか、荒川氏、桜井松平氏、大草松平氏が呼応した事で反乱が大きくなりました。また安祥松平氏の配下だった本多正信、蜂屋貞次、夏目吉信が家康を裏切り一揆に加担しました。これは家康の祖父の松平清康が安祥城や岡崎城下の浄土真宗門徒の勢力を引き込んだからであり、家康の右腕となった石川数正の家も真宗門徒でした。
このため家康は一向一揆のみならず、吉良氏や大草松平のような国内の反徳川勢力や自分の家臣たちとも戦う事になり、一時は岡崎城まで攻め込まれ大変な困難を体験します。
こちらもCHECK
-
不入の権とは?家康と対立した三河一向宗を豊かにした権利【どうする家康】
続きを見る
空誓の信仰観や教義は?
一向宗は多神教の日本の宗教としては珍しく阿弥陀如来を唯一の神として、それ以外の神仏を排斥する特徴がありました。そのため、他の仏教宗派とも激しく対立し合戦にまで発展した事もあります。
教義は、阿弥陀仏を信仰し浄土真宗の教えを広めて仏教王国を築く事であり、仏敵と戦う者は死んでも極楽往生間違いなしと説き、逆に命を惜しんで逃げる者は無間地獄に落ちるとしました。そのため門徒は逃げて無間地獄に落ちる事を恐れ、極楽往生を願って進んで戦い、命を投げ出したと言われています。空誓も19歳の若さながら教えを忠実に信じ、自ら鎧兜を身につけ鉄棒を奮って信徒の先頭に立って戦ったと伝承されています。
こちらもCHECK
-
三州錯乱の大事件とは?家臣が家康を見限った?徳川家康の大ピンチ「どうする家康」
続きを見る
空誓と家康の対決はどのように進んだ?
三河一向一揆は、三河三ヶ寺が家康によって守護使不入の特権が侵害された事に抗議して起こったとされます。本證寺第十代住持、空誓は、上宮寺や勝鬘寺と共に檄を飛ばし、本願寺門徒を招集して家康の部下である菅沼氏の砦を襲撃しました。この一揆に呼応して真宗門徒の松平氏家臣や吉良氏などの有力豪族、今川氏残党もバラバラに一揆に加わり一時は家康の本拠地岡崎城まで攻め上り家康を窮地に陥れます。
しかし、1564年1月15日の馬頭原合戦の勝利で家康は優位に立ち、一揆勢力と和議に持ち込み一揆の解体に成功。一揆に呼応していた吉良氏や酒井氏は孤立して追放され、小笠原氏は家康に従いました。一揆に与した武士には家康への忠誠心と信仰心の板ばさみにあって苦しんでいる者も多く和議が締結されると、それらの武士が続々と家康に帰参し一揆は収束に向かいます。
戦乱で本宗寺は御坊を焼失、勝鬘寺は伽藍が焼け落ちていました。家康は弱った本願寺の寺院に他派や他宗への改宗を迫りこれを拒んだ場合は破却して三河から一向宗の勢力を駆逐します。
こちらもCHECK
-
徳川家康の旗印「厭離穢土欣求浄土」ってどんな意味?【どうする家康】
続きを見る
空誓と他の宗教団体との関係は?
三河一向一揆は浄土真宗の寺が中心になり起こりましたが、すべての浄土真宗が一揆に参加したわけではありません。本願寺教団とは仲が悪い真宗高田派の寺院である桑子明眼寺や菅生満性寺は、これまでの経緯から家康に味方しています。
真宗高田派の中興の祖は真慧という人物で、一時本願寺派をしのぐ勢いがありましたが、1460年代に本願寺8世蓮如が登場すると本願寺派が盛り返し、蓮如が真宗高田派の門徒や寺を引き抜く事件が起きて高田派は本願寺派と完全に断絶、以後両派は犬猿の仲になったのです。
この経緯は当時19歳の空誓のせいではありませんが、浄土真宗が全て一枚岩でなかった事は一揆の失敗に影響がなかったとは言えないかも知れません。
こちらもCHECK
-
「家康の家系」風雲松平三代!覇王清康、没落した広忠を経て桶狭間から40年で天下人になった家康の家系を紹介
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
空誓は三河一向一揆に敗れた後で姿を消しますが、20年以上も経過した後で三河に戻ってきて本證寺を再興させ、さらには徳川家康に積極的に取り入り、遂には尾張徳川家藩主、徳川義直の補佐役にまでなっています。一向一揆で敗北した教訓を活かしたのは家康だけではなかったわけですね。
こちらもCHECK
-
なんで出家すると助命されるの?【戦国史プチ雑学】
続きを見る