北陸三県が注目を浴びています。ワーケーションやら地域産業興進やらといった話題に絡んでのことのようです。そんな北陸でいちばん有名な街といえば、やはり金沢であり、そして歴史ファンが思い浮かべる「金沢の戦国大名」といえば、前田利家でしょう。
いっぽう北陸には富山という重要都市もあります。
地味な街と思われがちかもしれませんが、とんでもない。たとえば北陸三県の好調ぶりを検証した、『福井モデル 未来は地方から始まる』(文春文庫/藤吉雅春)という本によると、富山市は2012年OECDがまとめた『コンパクトシティ政策報告書』で、メルボルン、バンクーバー、パリ、ポートランドと並んで、世界の先進五都市のひとつに数えられていたそうです。すごいリストだ!
さてそれでは、その「富山の戦国大名」といえば?
とうぜん、佐々成政!
のはずなのですが、いかがでしょう?
佐々成政といわれても、そうとうな歴史ファンでないと「だれ?」となってしまったのでは?
ところがこの佐々成政、調べれば調べるほど、戦国時代有数のオオモノとして、もっともっと評価されてもいい人物だとわかるのです。しかも彼の人生は、金沢の巨人である前田利家と、途中まではまるで鏡像にようにソックリな、順風満帆なものでした。
つまり、あとほんの一歩で、前田利家とならぶ「豊臣時代〜徳川時代の超オオモノ」となっていたかもしれない人物なのです。そんな佐々成政と前田利家の、明暗を分けてしまったポイントとは、どこだったのでしょう?
今回の記事では、そこのところを、佐々成政の生涯と前田利家の生涯とを比較しながら、追ってみたいと思います!
この記事の目次
途中まではほとんど前田利家と同じキャリア?佐々成政の華麗な前半生!
まずは佐々成政の前半生をまとめてみましょう。
・尾張国に生まれ、若くから織田信長に仕える
・数々の武功を立て、信長の親衛隊ともいえる「黒母衣衆」の筆頭に抜擢される
・信長から北陸方面攻略軍の幹部の一人に任命される
・かの上杉景勝と戦いを演じ、互角以上に渡り合う
いかがでしょうか?
前田利家に詳しい方ならば、「あれ?」と思ったところでしょう。
というのも、前田利家の前半生をまとめてみると、
・尾張国に生まれ、若くから織田信長に仕える
・数々の武功を立て、信長の親衛隊ともいえる「赤母衣衆」の筆頭に抜擢される
・信長から北陸方面攻略軍の幹部の一人に任命される
・かの上杉景勝と戦いを演じ、互角以上に渡り合う
となっています。まるで鏡像のようです!唯一の違いは、佐々成政は「黒母衣衆」の筆頭、前田利家は「赤母衣衆」の筆頭だったというところでしょうか。
「黒母衣衆」「赤母衣衆」というのは信長の二大近衛兵団。こうしてみると、二人の織田信長軍での格は、ほとんど同列だったのではないか、と推測できるのです。
その後、本能寺の変が発生し、清須会議を経て政治情勢が変わると、ここにおいても、前田利家と佐々成政の判断はほぼ同じ。
二人は北陸に引っ込み、いったんは柴田勝家勢に与しますが、タイミングの違いはあれ、けっきょくはどちらも豊臣秀吉に臣従する道を選びます。こんなにも政治判断も似ていた二人。どこで運命が分かれたのでしょう?
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小牧・長久手の辺りから二人の生き方にどんどん違いが!
通説としてよく言われるのが、かの小牧・長久手の戦い。前田利家は秀吉側についたのに、佐々成政はここで何を思ったのか、徳川家康の側についたのです。
戦闘が終結し、秀吉の勝利が確定すると、佐々成政は富山を取り上げられてしまいます。一般には、これをもって、佐々成政の没落と言われているのですが、でも、少し待ってみましょう。実はこのあと、秀吉は佐々成政を肥後国(熊本県)の大名に抜擢しているのです。
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真の落ち目はむしろ肥後国への不適応?!
中央政界からは遠ざけられたように見えますが、肥後といえば九州方面の超重要拠点。秀吉は、引き続き、佐々成政を重視していたように見えるのです。肥後の大大名ともなればキャリアとしても悪くない。はずでしたが、ここで最悪の事態が起こりました。
肥後で大規模な国人一揆が発生。佐々成政はそれを抑えることができず、肥後統治に完全に失敗してしまったのです。この件の責任を取らされて、佐々成政は切腹を命じられてしまったのでした。
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まとめ:佐々成政に足りなかったものはただ一点、近世への適応力?
この話、佐々成政は配置された土地が難所であった運の悪い人、とも受け止められます。しかしよく考えてみると、前田利家が配置された加賀国のほうこそ、いわゆる加賀一向一揆で織田軍と激しく殺し合った土地柄。
いわば前田利家は、ようやく制圧した激戦地に「占領軍のトップ」として乗り込んだ立場。加賀の統治こそ「難所」だったはずです。ところが前田利家は、加賀の統治にあたり、いわゆる「検地」や「刀狩」もできるだけ土地の事情にあわせるように配慮して、うまく加賀の有力な地元支配層を味方につけることに成功したと言われています。
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戦国史ライターYASHIROの独り言
とすると二人の明暗の分かれ道は、なんとも単純な話かもしれません!
前田利家も佐々成政も、信長の配下で軍事に励んでいる時は、ともに時代の寵児だったのです。
それが豊臣政権になり、「検地をやれ」「刀狩をやれ」と、割り与えられた領地の統制を求められたとき。前田利家は見事に「領国経営のうまい殿様」に変身し、佐々成政はどうもうまくいかなかった。
織田時代から豊臣時代の変化に乗り切ることができたか、できなかったか。この一点が前田利家と佐々成政の明暗をけっきょくは分けたのだ、と考えると、私の感想は、こうなります。
「現代は時代が変わるのが早すぎるから大変だなんてよくいわれるけど、いや、戦国安土桃山の皆さんだって、きっと時代についていくのはさぞかし大変だったんだろうな」と。戦いで活躍すればいい時代から、領国を安定経営しないと切腹させられる時代への転換。悩み多き時代だったのではないでしょうか?
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