昭和時代

敗戦後の日本政治はどのように始まったの?簡単に分かりやすく解説

鶴見中尉のモデルとなった須見新一郎(日本兵士)

 

日本史の教科書では、満洲事変から大東亜戦争敗戦までの15年間を暗黒時代として、敗戦を迎えると一転して生活は苦しいけど自由が戻って来た社会として描写されがちです。

 

しかし敗戦から始まった日本の戦後政治について、皆さんは印象がありますか?サンフランシスコ講和条約(こうわじょうやく)くらいしか印象がないのではないでしょうか?

 

そこで今回は終戦からの戦後政治を簡単に説明します。

 

 

鈴木内閣を引き継いだ東久邇宮内閣

国会議事堂

 

昭和20年4月30日に組閣された鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣は、本土決戦を主張する陸軍の意向をかわしつつ、昭和天皇の聖断(せいだん)という異例の手法で、米英ソ支から出された最後通牒(つうちょう)ポツダム宣言を受諾して有条件降伏しました。

 

ドラマや映画、あるいは教科書では日本が無条件降伏したと表示されますが、これは76年間続く誤りで無条件降伏したのは日本軍であり、日本政府はポツダム宣言10条の日本人を民族として奴隷化し日本国民を滅亡させる意図はないとする条文を読んで条件付きで降伏したのであり、これは有条件降伏です。

 

鈴木内閣は昭和20年8月17日に総辞職、後任総理には皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)が指名されここに日本史上唯一の皇族内閣が誕生しました。

 

東久邇宮が総理に指名された背景には、占領軍が日本に乗り込んでくる上で国民の意志統一を図るのに皇族が適任である事や皇族で陸軍大将の東久邇宮なら陸軍の過激派を抑えられるという計算。また降伏後なので皇族の戦争責任が問われる事はないと判断したためと言われています。

 

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東久邇宮内閣総辞職

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

東久邇宮内閣は、GHQ(ジー・エイチ・キュウ)(連合国最高司令官総司令部)の指揮下に入りましたが、同時に国体護持(こくたいごじ)をスローガンに掲げていました。これは天皇制を守り急激な社会変革を認めないという事でした。

 

東久邇宮内閣は全日本軍の武将解除、占領軍の進駐の手配、降伏文書調印と難題をクリアしていきますが、政治犯・思想犯の釈放、特高警察(とっこうけいさつ)の解体などの指令については共産主義勢力が拡大し天皇制が危機に瀕するとして躊躇します。

 

また、有名なマッカーサーと昭和天皇が並んで映る写真についても「陛下の玉体(ぎょくたい)を被写体にするとは不敬(ふけい)である」として新聞社に発禁処分を命じGHQと対立します。

 

GHQは東久邇宮内閣を叱責(しっせき)、閣僚の罷免と指令の遵守を命じたので、東久邇宮稔彦はこれ以上、内閣を率いる自信がないとして総辞職を決意します。総理在職日数54日でした。

 

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幣原内閣成立

 

東久邇宮内閣の倒閣を受け組閣したのは、戦前からのオールドリベラリストでGHQ民政局のウケが良かった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)です。

 

昭和20年10月9日の内閣発足後、幣原はマッカーサーの下に(おもむ)いて五大改革と憲法の自由主義化を命じられます。幣原内閣より、日本政治は完全GHQの支配下に入る事になりました。マッカーサーから提示された五大改革とは、婦人参政権の承認、選挙法の改正、農地改革、財閥解体、教育の民主化等でした。

 

幣原内閣は憲法改正や社会立法に取り組む一方で戦時色の一掃を図る為、12月18日に衆議院を解散します。しかしGHQは幣原内閣の改革の取り組みが消極的だとして解散総選挙を認めず、昭和20年の間に財閥解体などを進め、戦犯の逮捕を命じて総選挙を延期させました。

 

昭和21年1月4日、戦争に関与したとされる人々の第一回公職追放令が出ます。幣原内閣にも該当者がいて総辞職の危機を迎えますが一部閣僚を入れ替えて内閣は存続。総選挙についてもGHQから3月15日以降に実施する許可を得ました。

 

ただし、幣原内閣が力を入れた憲法改正案をGHQは却下、マッカーサー草案をベースにした憲法改正草稿を出し幣原内閣は採択しました。日本国憲法がGHQ押し付けだと言われるのは、このような経緯があったからです。

 

昭和21年4月10日、第22回衆議院議員総選挙がおこなわれますが、いずれの政党も過半数を取れず、幣原は進歩党(しんぽとう)に入閣する事で政権延命を図りますが、政党政治が復活した以上、政党人ではない首相は下野すべきと批判が高まり5月22日に総辞職しました。

 

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鳩山内閣流産

 

戦後初の総選挙では、鳩山一郎(はとやまいちろう)が総裁を務める日本自由党が141議席を獲得し第一党になりますが過半数には及ばず、94議席を得た日本進歩党と93議席を得た日本社会党が政権運営のカギを握る事になります。

 

当時首相だった幣原喜重郎は、進歩党の総裁として迎え入れられる事で延命を図りますが他党の猛反発を受けて総辞職を決意。昭和21年4月30日に皇居に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継者として指名しました。

 

これを受けて鳩山一郎は組閣作業に入りますが、同年5月4日、突然GHQから公職追放(こうしょくついほう)を命じられ組閣が不可能になります。

 

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第1次吉田内閣成立

 

鳩山は当初、古島一雄(ふるしまかずお)を訪ねて後継総裁を依頼するも古島は高齢を理由に拒否。次に枢密顧問官(すうみつこもんかん)で元外交官の松平恒雄(まつだいらつねお)に白羽の矢を立て外交官OBの吉田茂(よしだしげる)に説得を依頼、吉田は松平が総裁就任を受ける用意があると鳩山に伝えました。

 

しかし、鳩山が松平を訪ねると全く折が合わず、鳩山はその足で外務大臣邸にいた吉田茂を訪ねて「あの殿様では党内がまとまらないから君が総裁をやってくれ」と総裁就任を要請します。

 

吉田は「俺みたいなワガママ人間に務まるわけない、必ず()める」と断りますが、すでに総選挙から1ヶ月が経過しており、GHQからの横槍を警戒した鳩山は、元政友会幹事長の松野鶴平(まつのつるへい)に毎晩のように吉田を説得させました。

 

吉田は宣言通りワンマンぶりを発揮し、面目を潰された自由党本部は吉田を総裁の座から引きづり下ろそうとしますが、吉田は意に介さず昭和21年5月16日、皇居に向かい首相就任の大命降下(たいめいこうか)を受け、独自に組閣を開始したので、もう反対するわけにもいかず、渋々、吉田を総裁として認めます。

 

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吉田内閣総辞職

 

外交官出身で英語も堪能(たんのう)な吉田はGHQとの関係を良好に保ち日本国憲法の施行や第二次農地改革などの重要課題を遂行します。しかし、数百万人の復員兵の帰還による食糧不足の深刻化、巷にあふれる失業者問題の解決は困難を極め、社会党、共産党が主導する労働争議が激化しました。

 

昭和22年4月20日、新憲法下における第23回衆議院議員総選挙、さらに4月25日の第一回参議院議員通常選挙で自由党は善戦したものの、衆議院、参議院において第一党の地位を社会党に奪われます。

 

吉田は当初、社会党右派との連立を考え日本社会党委員長の片山哲(かたやまてつ)に対し、左派を切る事を連立条件としますが、片山は左派の切り離しには応じず、吉田は「社会党の情けにすがって惨めな政権運営をするより下野したほうがいい」と総辞職、野党に転落します。

 

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社会党政権、片山内閣樹立

 

日本社会党委員長の片山哲は当初、吉田茂率いる自由党を含めた挙国一致内閣(日本共産党を除く)を目指しますが、反共主義者である吉田からの社会党左派を切れという条件が飲めず失敗。

 

仕方なく、日本社会党、民主党、国民協同党の3党を中心に昭和22年6月1日に連立内閣を発足させます。片山内閣では公務員の公僕化を目指す国家公務員法の制定、内務省を解体・廃止し国家地方警察と1600の自治体警察を設置する警察制度改革、労働省の設置や失業保険の創設、封建的家族制度の廃止を目標とした改正民法の制定や刑法の改正に取り組みます。

 

特に炭鉱国家管理法は、社会主義政策を具現化し石炭増産を目論んだものですが、産業界が猛反発し野党自由党のみならず与党民主党からも難色を示され法案は骨抜きとなって可決されました。

 

結局、炭鉱国家管理法案採決を巡り、民主党の幣原喜重郎派が造反し、社会党右派でも勢力争いが起こり、社会党左派の造反が起きて内閣は機能不全に陥り、昭和23年2月10日、片山内閣は退陣を表明します。

 

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芦田内閣 昭和電工事件で倒閣

 

片山哲は昭和23年3月10日、後任に副総理であった民主党所属の芦田均(あしだひとし)を内閣総理大臣に指名します。

これに対し野党だった自由党は、内閣が総辞職した以上、第二党である自由党に政権を禅譲すべきと激しく非難しました。

しかし、片山前総理や連立政権は「片山内閣退陣の原因は社会党内部の対立によるもので政権そのものが否定されたわけではない」と主張して押し通します。

 

リベラル左派である芦田政権の誕生は、同じくリベラルであったGHQ民政局に歓迎され、芦田も民政局寄りの政権運営をしていましたが、日本文化に無理解で、何でも軍国主義のレッテルを貼って禁止する民政局の政策は国民に不評で、参議院での内閣総理大臣指名選挙では元首相の吉田茂への投票が多数を占める有様になりました。

 

ここで芦田内閣は、社会党書記長の西尾末広の献金問題、さらに昭和電工事件という日本政界ばかりか、GHQ民政局まで巻き込む「政治とカネ」の問題に巻き込まれます。

 

こうして後ろ盾の民政局が勢力を失い、芦田個人にまで献金疑惑が出るに至り、昭和23年10月7日岸田内閣は総辞職。岸田自身も12月に容疑者として逮捕されました。

 

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東西冷戦を前に第2次吉田内閣誕生

 

事件の背景には、GHQで勢力争いをしていた民政局(みんせいきょく)GS(ジーエス))と参謀二部(さんぼうにぶ)G2(ジーツー))の対立があります。当初、アメリカ本国は日本を弱体化させるために敢えて社会主義勢力である民政局に日本再建を任せましたが、東西冷戦が本格化した事で日本を反共の防波堤にする必要が生まれ、G2がアメリカ本国の支持を受けるようになりました。

 

それに従い、政権も社会党政権から保守の自由党政権が望ましいという事になり、昭和23年10月15日、第2次吉田内閣が発足します。

 

以後、吉田内閣は幾度も内閣改造、総選挙を繰り返しつつ昭和29年12月10日まで長期政権を維持しました。吉田内閣の中で、日本はサンフランシスコ講和会議で独立を回復。同時に日米安保条約をアメリカとの間で締結し、戦後問題は吉田内閣の時代に形作られる事になります。

 

日本史ライターkawausoのまとめ

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

日本の戦後政治は常に占領軍であるGHQの命令と思惑に振り回されました。最初の東久邇宮内閣はGHQの命令に真っ向から叛いて総辞職を余儀なくされ、次の幣原内閣は総選挙を止められた上に苦心した憲法草案を拒否され、マッカーサー草案を押し付けられます。

 

衆議院総選挙で第一党になり組閣するはずの鳩山一郎は直前で公職追放の憂き目にあい、外交官で政治にタッチした事がない吉田茂が首相となるも、その後はGHQ民政局の横槍でリベラルである片山哲、芦田均が内閣を組織。社会主義的な政策が実施されました。

 

しかし、冷戦構造が本格化した事で、アメリカ本国は日本を反共の防波堤と位置づけ、民政局の勢力が低下、参謀第二部が主導権を握ると、昭和電工事件を契機に芦田内閣が倒され、野党に下野した吉田茂の自由党が返り咲きます。

 

吉田茂は長期政権を維持する為に、官僚出身の優秀な人材を次々登用して選挙で当選させ、池田勇人(いけだはやと)佐藤栄作(さとうえいさく)田中角栄(たなか・かくえい)のような総理経験者を多く輩出。現在では、吉田茂から続く自由民主党の系譜を保守本流と呼んでいます。

 

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