「黒母衣衆」筆頭佐々成政が、「赤母衣衆」筆頭前田利家のようにはいかなかった明暗の分かれ目とは?

27/12/2021


長い槍が得意な前田利家

 

北陸三県が注目を浴びています。ワーケーションやら地域産業興進やらといった話題に絡んでのことのようです。そんな北陸でいちばん有名な街といえば、やはり金沢であり、そして歴史ファンが思い浮かべる「金沢の戦国大名」といえば、前田利家(まえだとしいえ)でしょう。

 

いっぽう北陸には富山という重要都市もあります。

 

 

地味な街と思われがちかもしれませんが、とんでもない。たとえば北陸三県の好調ぶりを検証した、『福井モデル 未来は地方から始まる』(文春文庫/藤吉雅春(ふじよしまさはる))という本によると、富山市は2012年OECDがまとめた『コンパクトシティ政策報告書』で、メルボルン、バンクーバー、パリ、ポートランドと並んで、世界の先進五都市のひとつに数えられていたそうです。すごいリストだ!

 

さてそれでは、その「富山の戦国大名」といえば?

 

 

黒母衣衆となり頭角を表す佐々成政

 

とうぜん、佐々成政(さっさなりまさ)

 

のはずなのですが、いかがでしょう?

佐々成政といわれても、そうとうな歴史ファンでないと「だれ?」となってしまったのでは?

 

信長から直属の鉄砲隊を預けられ戦う

 

ところがこの佐々成政、調べれば調べるほど、戦国時代有数のオオモノとして、もっともっと評価されてもいい人物だとわかるのです。しかも彼の人生は、金沢の巨人である前田利家と、途中まではまるで鏡像にようにソックリな、順風満帆なものでした。

 

つまり、あとほんの一歩で、前田利家とならぶ「豊臣時代〜徳川時代の超オオモノ」となっていたかもしれない人物なのです。そんな佐々成政と前田利家の、明暗を分けてしまったポイントとは、どこだったのでしょう?

 

今回の記事では、そこのところを、佐々成政の生涯と前田利家の生涯とを比較しながら、追ってみたいと思います!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

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おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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途中まではほとんど前田利家と同じキャリア?佐々成政の華麗な前半生!

佐々成政

 

まずは佐々成政の前半生をまとめてみましょう。

 

・尾張国に生まれ、若くから織田信長(おだのぶなが)に仕える

・数々の武功を立て、信長の親衛隊ともいえる「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭に抜擢される

・信長から北陸方面攻略軍の幹部の一人に任命される

・かの上杉景勝(うえすぎかげかつ)と戦いを演じ、互角以上に渡り合う

 

いかがでしょうか?

前田利家に詳しい方ならば、「あれ?」と思ったところでしょう。

 

 

前田利家

 

というのも、前田利家の前半生をまとめてみると、

・尾張国に生まれ、若くから織田信長に仕える

・数々の武功を立て、信長の親衛隊ともいえる「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の筆頭に抜擢される

・信長から北陸方面攻略軍の幹部の一人に任命される

・かの上杉景勝と戦いを演じ、互角以上に渡り合う

 

となっています。まるで鏡像のようです!唯一の違いは、佐々成政は「黒母衣衆」の筆頭、前田利家は「赤母衣衆」の筆頭だったというところでしょうか。

 

赤母衣衆に選抜される毛利秀頼

 

「黒母衣衆」「赤母衣衆」というのは信長の二大近衛兵団。こうしてみると、二人の織田信長軍での格は、ほとんど同列だったのではないか、と推測できるのです。

 

清須会議に参加する池田恒興 柴丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家

 

その後、本能寺(ほんのうじ)の変が発生し、清須会議(きよすかいぎ)を経て政治情勢が変わると、ここにおいても、前田利家と佐々成政の判断はほぼ同じ。

 

柴田勝家

 

二人は北陸に引っ込み、いったんは柴田勝家(しばたかついえ)勢に与しますが、タイミングの違いはあれ、けっきょくはどちらも豊臣秀吉(とよとみひでよし)に臣従する道を選びます。こんなにも政治判断も似ていた二人。どこで運命が分かれたのでしょう?

 

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小牧・長久手の辺りから二人の生き方にどんどん違いが!

小牧・長久手の戦い 秀吉 vs 家康

 

通説としてよく言われるのが、かの小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦い。前田利家は秀吉側についたのに、佐々成政はここで何を思ったのか、徳川家康(とくがわいえやす)の側についたのです。

 

中国大返し(豊臣秀吉)

 

戦闘が終結し、秀吉の勝利が確定すると、佐々成政は富山を取り上げられてしまいます。一般には、これをもって、佐々成政の没落と言われているのですが、でも、少し待ってみましょう。実はこのあと、秀吉は佐々成政を肥後国(熊本県)の大名に抜擢しているのです。

 

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真の落ち目はむしろ肥後国への不適応?!

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

中央政界からは遠ざけられたように見えますが、肥後といえば九州方面の超重要拠点。秀吉は、引き続き、佐々成政を重視していたように見えるのです。肥後の大大名ともなればキャリアとしても悪くない。はずでしたが、ここで最悪の事態が起こりました。

 

肥後で大規模な国人一揆が発生。佐々成政はそれを抑えることができず、肥後統治に完全に失敗してしまったのです。この件の責任を取らされて、佐々成政は切腹を命じられてしまったのでした。

 

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まとめ:佐々成政に足りなかったものはただ一点、近世への適応力?

溺れる忍者

 

この話、佐々成政は配置された土地が難所であった運の悪い人、とも受け止められます。しかしよく考えてみると、前田利家が配置された加賀国のほうこそ、いわゆる加賀一向一揆で織田軍と激しく殺し合った土地柄。

 

いわば前田利家は、ようやく制圧した激戦地に「占領軍のトップ」として乗り込んだ立場。加賀の統治こそ「難所」だったはずです。ところが前田利家は、加賀の統治にあたり、いわゆる「検地」や「刀狩」もできるだけ土地の事情にあわせるように配慮して、うまく加賀の有力な地元支配層を味方につけることに成功したと言われています。

 

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ながら日本史

 

 

戦国史ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

とすると二人の明暗の分かれ道は、なんとも単純な話かもしれません!

 

前田利家の武勇を賞賛する信長

 

 

前田利家も佐々成政も、信長の配下で軍事に励んでいる時は、ともに時代の寵児だったのです。

 

刀狩を行った豊臣秀吉

 

それが豊臣政権になり、「検地をやれ」「刀狩をやれ」と、割り与えられた領地の統制を求められたとき。前田利家は見事に「領国経営のうまい殿様」に変身し、佐々成政はどうもうまくいかなかった。

 

 

三国志を楽しく語るライターYASHIRO様

 

織田時代から豊臣時代の変化に乗り切ることができたか、できなかったか。この一点が前田利家と佐々成政の明暗をけっきょくは分けたのだ、と考えると、私の感想は、こうなります。

 

「現代は時代が変わるのが早すぎるから大変だなんてよくいわれるけど、いや、戦国安土桃山の皆さんだって、きっと時代についていくのはさぞかし大変だったんだろうな」と。戦いで活躍すればいい時代から、領国を安定経営しないと切腹させられる時代への転換。悩み多き時代だったのではないでしょうか?

 

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通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
【好きな歴史人物】
南朝側の武将全員!

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