大河ドラマ「どうする家康」ついに織田信長が本能寺で倒れ、羽柴秀吉が明智光秀を討ち取り歴史の表舞台に躍り出ました。
この秀吉と衝突したのが織田家宿老の柴田勝家ですが、賤ヶ岳の戦いに敗れて北ノ庄城で自害します。この流れは有名ですが、そもそもどうして勝家は秀吉に敗北したのでしょうか?
最初の敗因は天候
柴田勝家は豪雪地帯である越前北ノ庄が本拠地でした。この点が秀吉との戦いでは不利に働きます。勝家は信長の三男で美濃54万石を相続した織田信孝を味方に引き込み、近江には甥の柴田勝豊を置いていました。本来なら勝家は美濃と近江を軸にして秀吉と対峙する予定でしたが、運悪く豪雪に遭遇し城から出られなくなりました。
秀吉がこのチャンスを逃すはずはありません。即座に軍勢を派遣して長浜城の柴田勝豊を包囲します。勝豊は当時、病に臥せっており、同時に後継者問題で勝家との関係も悪かったようで、あっさりと降伏しました。
秀吉はさらに軍を進め岐阜城の信孝を包囲。当時、美濃を相続したばかりで権力を掌握できなかった信孝も、これまたあっさりと和睦します。勝家は、大雪の中で味方が次々と切り崩されるのを指をくわえて見ているほかありませんでした。
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2つ目の敗因は味方
豪雪地帯の宿命により、大事な戦力を失った勝家ですが、2つ目の敗因は味方でした。大勢力の信孝を失ったとはいえ、勝家には若い頃から可愛がっていた猛将、前田利家と甥の佐久間盛政がいました。勝家は、この2人に大きな期待をしていましたが両者は揃いも揃って勝家の期待を裏切ります。
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佐久間盛政の失敗
まず、佐久間盛政ですが、彼は、秀吉が再度蜂起した織田信孝の軍勢を鎮圧する為に岐阜に戻ると、今こそ、羽柴勢に攻撃を仕掛ける好機と進言します。勝家は盛政に許可を出しました。盛政は最初に大岩山砦を攻撃し砦を守る中川清秀を討ち死にさせました。次に盛政は黒田孝高部隊を攻撃、岩崎山に陣取る高山右近に攻撃を仕掛けて敗走させ、山頂にある賤ヶ岳砦を包囲したのです。
この大勝利で柴田陣営は湧きたちますが、盛政は帰還するように命じる勝家を無視し、賤ヶ岳砦に居座り続けました。もうダメだと考えた砦の守将、桑山重晴は夜陰に乗じて砦を下りていきました。
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丹羽長秀と羽柴秀吉に逆襲される
しかし、ここで予想外の事が起きます。その頃、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が賤ヶ岳砦陥落の報を受けて予定変更して急遽上陸。逃げてきた桑山重晴の軍勢と合流して、砦に入っていた佐久間盛政の軍勢を撃ち破り砦を取り返しました。
さらに、羽柴秀吉も美濃から5時間と言う速度で52キロの道のりを踏破し賤ヶ岳に戻ってきました。佐久間盛政は丹羽長秀と桑山重晴、さらに秀吉の本隊に攻撃され、弟の柴田勝政の陣に移動し、ここで何とか踏みとどまりました。ですが、散々に羽柴軍に破られた佐久間盛政は兵力を大きくすり減らしていたのです。
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前田利家の裏切り
佐久間盛政のイノシシぶりには困ったものですが、まだ、次の前田利家に比較すればマシです。羽柴軍が柴田勝家の軍勢に攻撃を開始したその時、後詰にいた前田利家率いる5000人が何も言わずに戦線を離脱したのです。柴田軍は30000人なので5000の前田軍が引き上げたのは衝撃的でした。
利家に続き、不破勝光や金森長近のような勝家方の武将も連鎖反応を起こし続々と退却します。奮戦する佐久間盛政と柴田勝政隊も敗れ、本陣だけになった勝家は、やむを得ず退却し、北ノ庄城に籠城しますが、もはや勝家に味方する大名はなく、圧倒的多数の羽柴秀吉軍に包囲され、自害しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
前田利家と金森長近、不破勝光はどうやら勝家が大雪で北ノ庄城に閉じ込められている間に、秀吉に買収されていた可能性が高いようです。勝家はその噂を知らなくも無かったでしょうが、圧倒的な勝利を見せつければ、内応の約束などすぐに反故に出来ると考えていたのかも知れません。裏切りとは無関係な佐久間盛政ですが武勇を見せつける為に、結果として兵力を損じ、勝家の窮地に役に立てなくなった部分はチョンボという事になるかも知れませんね。
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