本能寺の変、その背景については、
「感情的ないさかいに過ぎなかった」から、
「実は黒幕がいた」まで、
現代でもさまざまな説が囁かれています。
ただし、どの説を取るにせよ、明智光秀はどちらかといえば「受け身」で謀反を実行し、成功の原因はどちらかといえば信長の側の油断であった、とされがちです。実際は、どうだったのでしょうか?
今回は、ひとつのキーワードに着目して、本能寺の変成功の背景を確認してみたいと思います。それは、「馬廻衆」というキーワードです。というのも、織田信長といえば、あと一歩で天下人になるところまできていた権力者。その周囲には「馬廻衆」と呼ばれる、手飼いの精鋭部隊がいつも従っていた、とされているはずなのです。
姉川の戦いでも、桶狭間の戦いでも、いつも信長と一緒に戦場を駆け巡っていた「馬廻衆」。この精鋭部隊が、どうして、本能寺の変においてはまったく名前が出てこなかったのでしょうか?
この記事の目次
不運か?油断か?当日たまたま分散して行動していた「馬廻衆」
こちらについては、谷口克広さんの『信長の親衛隊』(中公新書)の研究に従って整理したいと思います。
本能寺が襲撃された時、明智光秀の軍と戦ったのは、信長に付き従っていたわずか50名ほどの近習たちだけで、ほとんど勝負にならなかった、とされています。しかし、信長を取り巻く親衛隊であるところの「馬廻衆」は、中国地方や四国地方への出陣前ということもあり、武装した自分の兵隊を引き連れて京都にやってきていたはずなのです。
この軍勢はどこにいたのでしょうか?
前後の記録を検証すると、信長が安土城を出て京都の本能寺に入った際、馬廻衆たちはそれぞれの手勢を従えて、京都の町の各地に分散して宿泊していた模様です。京都には到着していたのですが、各部隊はバラバラの場所にいた!
明智光秀の一万人の軍勢は、この状況を巧みに衝いて、一気に本能寺を襲撃したのでした。
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連携を取る間もなく数時間で壊滅した「馬廻衆」の最期
本能寺が攻撃されたとの報を受けると、もちろん馬廻衆たちも現場に駆けつけます。ですが、ここでも不運なことに、分散して宿泊していた各部隊は連携した動きを取ることができませんでした。
一部の馬廻は、既に絶望的な状況だった本能寺に駆けつけ、明智軍の多勢の前に各個撃破されてしまいます。もう少し冷静な判断をした馬廻たちは、主君の信長の命を諦め、後継者となるべき織田信忠のところに集結しました。
しかし、これも有名な話ながら、ここで織田信忠は京都からの脱出を諦め、徹底抗戦をする判断を出します。
信長を救えなかった馬廻衆たちは、二代目である信忠のこの判断に従い、京都洛中で明智軍に絶望的な抗戦を挑みます。そして二条御所と二条城の陥落、信忠の自害という時系列の中で、かつて華々しく名を馳せた信長の馬廻衆たちのほとんどが壊滅してしまったのでした。
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意外なほどに光秀の段取りは完璧だった?
それにしても、本能寺の変当日のこうした状況の推移は、とことん明智軍に有利でした。果たして明智光秀は、信長の馬廻衆がこのように京都市内に分散していることまで、先んじて情報を把握していたのでしょうか。
突発的な事件ともいわれる本能寺の変ですが、このあたりを見ると、光秀は「この一瞬しかない!」というスキを衝いて迅速な行動をしたように見えます。
突発的に思いついた謀反だったとすれば、わずかな時間で見事に京都市内の状況を正確に偵察して行動したということになりますし、計画的に行った謀反だったとすれば、この日を逃してはいけない絶対のチャンスを待って実行に移した手腕だったといえるでしょう。
やはり明智光秀は、ひとかどの武将と評価できるのではないでしょうか?
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まとめ:そうは言っても討死した馬廻衆たちは格好いい!
前後の状況を整理すると、どうしても対応が後手後手に見えてしまい、いいところがなくも映ってしまう、この日の馬廻り衆。ですが細かいエピソードを拾っていくと、「やはり格好いい!」とうなってしまうこぼれ話がいろいろ出て来ます。
先にあげた谷口克広『信長の親衛隊』(中公新書)から、例として、矢代勝介という馬廻の行動をあげてみましょう。この人物は本能寺に駆けつけ、既に手遅れな状況にも関わらず、主君信長を救出しようと絶望的な奮戦をしたと伝えられます。
このとき、明智軍の中に、矢代勝介を知っている者がいて、「お前は信長の馬廻の中では他の者と違う(馬術家としての採用だったことを言っている?)、見逃してやるから、早くここを去れ」と言ってきました。
ですが勝介はそれをあざ笑って、堂々と明智軍に突撃し、壮絶な最期を遂げたと言われます。この矢代勝介に見られるように、主君の信長ときわめて深い感情でつながっていたらしき馬廻衆。
そのほとんどが、わずかな時間で、主君と共に歴史から消えてしまったのは何とも残念ですが、見方を変えれば、あくまで主君および二代目と並んで討死するほうを選んだ、この引き際のほうが、深い感情で結束していた、「信長の親衛隊らしい」最期だったといえるかもしれません。
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