戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は博多を紹介します。古代から西の拠点として大陸との交易が盛んだった博多。戦国時代に突入してからのどう変貌していったのか?
都市としての博多の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における博多の人口
最初に年代別の博多の人口を紹介します。
1150年 9,000(参考:平安末期・保元の乱が始まる6年前)
1471年 50,000(応仁の乱の最中)
1500年? 30,000(11代将軍義澄の時代)
1570年 17,000(姉川の戦い、博多の近くでは大友と竜造寺が戦った今山の戦いが勃発)
1579年 35,000(本能寺の変の3年前)
1600年 50,000(関ケ原の戦い)
昔も今も大陸に近い場所にある博多は、古くから栄えました。遣隋使や遣唐使が出発する拠点であり、元寇の襲来を防いだ町です。
そして戦国時代の前、室町時代には日本で初の自治都市として栄えました。
応仁の乱のころには5万人いた人口でしたが、戦国時代には減少していることがわかります。最も少ないころは1570年で、このころ中央では織田信長が上洛して戦い始めたころ。
このとき、博多の周辺で残っていた有力大名は限られていました。大友と竜造寺が現在の佐賀市付近で行われた、今山の戦いが同年に行われています。やがて戦国時代の終盤になるにつれ、人口が回復していきました。
そして豊臣秀吉による復興措置が取られたこともあり、博多の人口が急増。戦国時代における最後の戦いとされる「関ケ原の合戦」が行われたときには、応仁の乱のころの数字に戻っています。
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戦国時代の博多を主に支配していた者・豪族
戦国時代に博多を支配していたのは、主に次の勢力です。
大友氏
大内氏
少弐氏
竜造寺氏
島津氏
小早川氏(豊臣政権)
黒田氏(徳川幕府)
室町中期から戦国時代が始まるころは、大友氏が博多北東部の息浜、小弐氏が南西内陸部の博多浜を治めていました。
特に大友氏は1429年に朝鮮王国に使者を送り、博多を支配している旨をアピールしています。
しかしこの状況に割り込んできたのが大内政弘。
応仁の乱でも主体的な活躍をした彼は、拠点である現在の山口県周辺にに加え福岡県にも勢力を伸ばし、
1478年には少弐氏を博多から追放するのに成功しています。
しばらく大内氏が博多の街を支配。1536年には遣明船を再開しています。また同時に大友勢力も健在でした。ところが1551年に大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反で倒れると、その隙に博多の完全支配に成功。当時の当主は大友宗麟です。1559年には九州探題になりました。その後鹿児島の島津が大友を駆逐、その隙に竜造寺氏が短期間博多を支配します。
その後竜造寺を倒した島津の支配下にはいりました。ところが日本の大多数を支配下に置いていた豊臣秀吉が大友からの助けを聞いて大軍を派遣。島津を追い払います。
荒廃した博多の町は黒田如水(官兵衛)が博多に駐留し、博多の復興のために遠方に逃げた住民を呼び戻して街を回復しました。豊臣政権下では小早川氏が博多地域を支配しましたが、関ケ原の合戦ののちは、如水の子、黒田長政のものとなり、福岡藩を立藩します。
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応仁の乱から家康の天下統一までに博多で何が起きていたか?
応仁の乱から徳川家康が天下を支配するまでの間に博多で起きた主な出来事です。
- 大友氏と小弐氏が共同支配
- 博多の覇権や日明貿易の主導権争いが絶えず各地で衝突
- 1478年大内氏の九州進出により小弐氏が追い出される
- 1551年陶晴賢の謀反により力の弱った大内氏に代わって大友氏の完全支配
- 1559年筑紫氏の襲撃により博多の町が破壊
- 1580年島津に敗れた大友の隙をついて竜造寺氏の博多支配
- 1586年竜造寺を滅ぼした島津氏が支配。その後、博多を焼き払う
- 1587年豊臣秀吉の九州討伐により、島津から博多を開放
- 黒田如水によって博多の街が復興する
- 秀吉の命により小早川隆景が支配
- 朝鮮出兵を見越して博多の町が兵站供給地に
- 関ケ原の戦いの後、黒田長政が博多に入り、博多の西に福岡城を築城
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なぜ博多は首都になれなかったのか?
戦国時代に限らず大陸との関係が深い博多の町。古代には大宰府が置かれ、政治的にも重要な拠点でしたが、首都になれなかった理由を考察します。首都と言うと天皇が遷都して住む都と考えた場合、そのひとつとして明治維新まで機内地方にとどまっていた天皇が遠く西の博多に遷都する可能性が極めて低かったことが考えられます。
また応仁の乱で活躍した大内氏は博多を勢力下に収めていた時期がありました。しかし大内は京にいる天皇を無理やり拉致して住まわせようとかそういう考えは持っていなかったようです。
仮に大内の力が実際よりも強く、大友らの諸大名を早い段階で従えて、京都に上洛して天下を取るようなことがあったとしても、せいぜい博多幕府のようなものができるのにとどまるでしょう。
あるいは博多を中心とした九州一円と中国地方の西側などが、京都の朝廷から完全に分離して独立国になれば十分に可能性があり得ます。
とはいえ博多は、たとえ首都ではなくとも経済面で大変潤いました。中国や朝鮮の他さらに遠くの国との貿易で潤っており、また商人の力が強く、自治をしていた時期があります。
重要な都市ということで2回もの焼き討ちにあったものの、その都度復興。九州を制圧した秀吉も、博多を重要な拠点と位置付けて、石田三成に博多奉行を命じて、如水と共に復興させるなど、この町の重要性の高さがうかがえます。
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博多の経済面について
博多は古代から大陸との貿易で栄えた町でした。中世のころの博多商人は朝鮮や明のほか、琉球王国や東南アジアの貿易を盛んに行いました。戦国時代になり、日明貿易の利害関係が、京にいる足利将軍家・細川管領家と地元博多を支配していた大内氏、博多商人との間で衝突します。
その一例は、日本ではなく、明側の貿易港・寧波で、1523年に行われた寧波の乱が有名です。
これは明国との外交問題に発展しました。しかしその後大内義隆が日明貿易を再開。同時に密貿易が横行し、倭寇と呼ばれる存在が活発化するきっかけになります。このほかにも博多を中心とした地域の覇権争いが激しくなり支配者が交互に変わります。それでも商人たちの貿易は盛んでした。
明、朝鮮をはじめ東南アジアとの交易。後には遠くヨーロッパ(南蛮)との貿易も行われ、博多商人たちは大いに潤います。しかし博多の町そのものが焼かれることが起こります。最初に筑紫惟門が1559年に博多を焼き払い。肥前国に商人たちが一時避難します。
その後大友氏が博多を再興。九州一裕福な街となり、堺同様有力商人が町を自治していました。
その後島津、竜造寺、大友の3大名が九州の覇権を争う戦いの中で、島津義弘が1586年に博多を焼き払ってしまいます。
翌年九州入りした豊臣秀吉は、島津を降伏させた後、博多商人たちの協力の元、町を復興させました。またそれまで自由に布教を許されていたキリシタンの宣教師たちに初めて行われた迫害「伴天連追放令」のきっかけが博多で起こっています。
秀吉の命令で博多を国際港にする秀吉の計画に、イエズス会が反発しました。その背景には博多湾の水深が浅いという理由で貿易港には不向きだった点が挙げられています。
ところが、それが秀吉に対する「反逆」と受け取られてしまい、バテレン追放令につながったと言われています。さらに博多の商人で忘れてはいけないのが「博多三傑」と呼ばれる特に有力な豪商たち。
それは次の3名です。
1.島井宗室1539〜1615年
→「武士とキリシタンには絶対になるな」という遺訓17か条を残す。
2.神屋宗湛1551〜1635年
→ 秀吉に謁見した際に豪商の最上席に座り「筑紫の坊主」と呼ばれた。
3.大賀宗九1561〜1630年
→ 武器商人の出、福岡藩筆頭御用商人となる。子の宗伯も有名。
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地震や津波などの自然災害について
戦国時代に人為的に焼き討ちにあった博多ですが、地震・津波などの自然災害による明確な被害の記録は残っていません。ただし江戸時代の記録では博多から見て南西に当たる久留米市を中心とした地域に頻繁に地震が発生したとの記録が残っています。
また2回の元寇が、博多沖の暴風雨により撤退したという記録から、まったく自然災害のダメージを受けていないとは言い切れません。それでも見事に記録がなく、2005年に発生した福岡県西方沖地震が、有史以来の大地震と言われるほどなので、人的な被害と比べて自然災害のダメージは比較的少なかったことがうかがえます。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
古代から大陸との拠点として栄えた博多の町。戦国時代は商人と支配者の利害関係が複雑にかかわり、人口が増減します。最終的に豊臣秀吉が支配してから博多の町は復興。江戸時代になり関ヶ原での戦功が認められた黒田家により幕末まで安定した支配が続きます。
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