戦国時代は日本史上初の地方の時代でした。
室町幕府の統制が弱まった地方では、ご当地戦国大名が割拠し地域の特性を生かした分国法を制定し産業を奨励、現在に繋がるローカル文化を生み出します。
このように戦国時代と言えば、ご当地戦国大名の話題が色々あるのに映画やドラマでは、近畿や関東や東海の戦国大名ばかりが登場して不公平ですよね?
そこで、ほの日では今回、香川県の戦国時代を特集してみましたよ。
この記事の目次
香川県の平安時代
大化の改新後、讃岐国となった香川県には大内、寒川、三木、山田、香川、阿野、鵜足、那珂、多度、三野、苅田の11郡が置かれ讃岐守として国司が派遣されました。
平安時代には関東で起きた平将門の乱に呼応して海賊の藤原純友が伊予国(愛媛県)で蜂起し讃岐国の国府を陥落させ大宰府まで攻め寄せます。
大和朝廷は追捕使長官、小野好古、次官源経基、主典藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、天慶4年(941年)5月に博多湾の戦いで純友の船団は追捕使の軍により壊滅。純友は息子重太丸と本拠地伊予へ逃げる途中、宇和島で殺害されたとも獄死したとも、遥か南方を目指して消息を絶ったとも言われています。
平安時代の末には源平合戦で有名な屋島の戦いが起こり、一ノ谷の戦いで敗れた平氏は屋島の戦いでも義経軍の背後からの急襲で敗北、以後瀬戸内の制海権を失いました。
また、鎌倉仏教派の法然も香川県に流罪にされ、ここで雨乞いの儀式を見て念仏踊りを編み出したそうです。
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建武の新政から南北朝
鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による治世、建武新政が開始されますが、それまでの公武二本立ての政治を強引に公家一本にしようとし全国の武士の反感を買います。
やがて倒幕の功労者の足利尊氏が挙兵。讃岐武士は足利一族の細川定禅に従って従軍しました。細川定禅には、下総御家人安富氏や相模の御家人の香川氏が被官として従い、やがて讃岐に土着し有力国人となります。
尊氏は一度破れるものの九州で再び勢力を回復、上洛して幕府を開き、後醍醐天皇は吉野に逃れ、日本は南北朝時代に突入します。
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細川奥州家、細川顕氏が讃岐国守護に
足利尊氏に従い香川県の支配者となったのは、細川定禅の兄弟、細川顕氏でした。顕氏は、従兄弟の和氏と共に元弘の乱頃から尊氏に仕えて鎌倉幕府討幕で活躍し建武3年(1336年)尊氏の命令で四国に渡海。諸大名や国人衆の統率に功績を挙げます。
これにより尊氏に讃岐国、河内国、和泉国守護と侍所頭人に任じられ、嫡流の和氏の死後は、その弟頼春と共に細川一門を主導しました。細川顕氏の功績は高く、足利家執事で軍事担当の高師直に並ぶほどだったそうです。
しかし、正平2年(1347年)南朝の河内守楠木正行に攻め込まれて藤井寺・教興寺の戦いで敗北、さらに住吉・天王寺の戦いでも逃走して敗戦すると河内守護と和泉守護を解任され、これらの地位を高師直に譲り渡す事になります。
細川顕氏は領国の讃岐を守り抜いて亡くなりますが、間もなく子の細川繁氏が急死。讃岐は細川京兆家の頼春から、子の細川頼之に相続し細川奥州家は没落しました。
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応仁の乱後、安富氏と香川氏が勢力を拡大
細川京兆家が讃岐の守護になると、細川家は管領として幕府の要職を占めた関係で讃岐国人も上洛していく事になります。特に香西氏、香川氏、安富氏、奈良氏の四氏は細川四天王と称されました。
ちなみに四天王の内、香西氏は藤原北家の流れを汲み国司として讃岐に赴任し土着した国人勢力で、奈良氏は武蔵国の御家人で細川京兆家に仕え、貞治元年(1362)の高屋合戦で戦功をあげ、細川氏から鵜足と那珂の二郡を賜って守護代化しました。
こうして見ると細川四天王と言っても香西氏以外は外来権力であり、細川氏が讃岐の土着国人を信用していない様子が窺えます。
しかし、応仁の乱が起き、その後、永正の錯乱などで細川京兆家が分裂すると讃岐国分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で勢力を拡大。両者の中間に挟まれた香西氏、阿野氏、鵜足郡の長尾氏、奈良氏、羽床氏等中小国人の群雄割拠状態となります。
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阿波国人三好氏が讃岐を制圧
この状態を制したのは細川氏の被官で、阿波(徳島県)国人だった三好氏でした。永正の錯乱で分裂した細川京兆家の中で三好氏は勢力を伸ばして阿波を領国化。さらに讃岐まで侵攻して安富氏を従属させ勢力を伸ばしていきます。
この時、讃岐植田氏の一族、三木郡の十河氏は三好氏に接近。三好長慶は弟の三好一存に十河氏を継がせ、若干の抵抗があったものの讃岐国は三好氏の支配下に入る事になりました。
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十河存保が讃岐の戦国大名となる
永禄4年(1561年)十河一存は急死、讃岐国は三好長慶の弟、三好実休の次男の十河存保が支配。阿波国を支配した兄の三好長治の命令を受けて統治します。
以後、存保は兄の長治や父の重臣、篠原長房と協力しながら松永久秀や三好義継と戦いますが、織田信長が松永久秀と結び足利義昭を奉じて上洛すると讃岐に撤退しました。
元亀4年(1573年)三好長治は、重臣篠原長房と険悪な関係になります。
十河存保は兄の命令で阿波国の森飛騨守、井沢右近大輔、東讃の香西氏、西讃の香川氏、淡路国の兵の総勢7千人と紀伊国の鉄砲衆三千を率いて板西城を攻め次に上桜城に籠城した篠原長房を攻め篠原長房を討ち取りました。
しかし、その後讃岐国人は三好氏から離脱を開始します。理由は三好長治の強権政治と篠原長房が東讃岐の国人、寒川氏から大内郡を割譲した事のようです。
讃岐国人の離反には織田信長や長宗我部氏の調略も関与していて、十河存保は讃岐国人を支配する力を完全に失いました。離反した香川之景は香西佳清と謀り、三好家臣で奈良氏領の代官を務める金倉顕忠を攻め滅ぼし、天正4年(1576年)に香西氏と香川氏は織田信長に従属します。
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十河存保、長宗我部氏に敗れる
天正5年(1577年)阿波国で三好長治が長宗我部元親の後援を受けた異父兄の細川真之に敗北し自害。さらに同年には讃岐に中国地方の小早川氏が上陸し西床城主の香川民部少輔を助けて長尾氏と羽床氏を攻める事件が発生します。
この事態に三好一族は十河存保を当主として担ぎ阿波勝瑞城に入れて、三好家の勢力挽回を図りました。
十河存保は土佐長宗我部氏に対し、讃岐と阿波国人に抗戦を呼びかけ大半を糾合。織田信長も長宗我部氏の四国統一を警戒し、長宗我部氏に支配下に入るように迫りますが、過去に四国は切り取り次第と信長から認可を受けた元親は拒否。
ここで信長は三好氏への態度を軟化させ十河存保は信長の援助を受けて長宗我部氏と戦う事になります。しかし、優勢になったのも束の間、後ろ盾の織田信長が本能寺の変に倒れ、長宗我部氏と独力での戦いを余儀なくされました。
十河存保は長宗我部氏との戦いで連敗し、天正12年(1584年)には讃岐の十河城と虎丸城を元親に落され、大阪の羽柴秀吉を頼り落ち延びます。
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二転三転する讃岐国の支配者
その後、存保は天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国攻めに協力して長宗我部元親を降伏に追い込み、讃岐十河3万石を秀吉から与えられて大名に復帰しました。
ただそれは、千石秀久の配下十河孫六郎としての復帰で、阿波の支配も三好家当主の地位も復活しません。その後、十河存保は秀吉の九州征伐に仙石久秀久の与力として従い、秀久の無謀な作戦に巻き込まれ戸次川の戦いで島津家久に敗れ戦死しました。
十河存保はこの時33歳、香川県ローカル戦国大名の寂しい最後です。
讃岐を与えられた仙石秀久も戸次川の戦いで味方を見殺しにして逃げた事で秀吉の怒りを買い讃岐国は没収され改易されます。次に讃岐は尾藤知宣に与えられるものの、尾藤も九州征伐で腰抜けな振る舞いをしたとして改易され、秀吉は生駒親正に讃岐を与えました。
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江戸時代、丸亀藩、高松藩、多度津藩が並立
その後秀吉が死去すると生駒氏は関ケ原で東軍に参加し領地は安堵されますが、寛永17年(1640年)生駒家はお家騒動を起こし出羽国へ移動。
以後、東讃岐には水戸徳川家の嫡流、松平頼重が高松に入り高松藩12万石、京極氏が丸亀に入り丸亀藩5万1千石を起こします。途中で丸亀藩は支藩として多度津藩1万石を分立させたので江戸時代の讃岐は3つの藩が並立する事になりました。
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戦国時代の香川県特徴
戦国時代の香川県は細川京兆家の支配下で京都の政局に近く、国人の香西氏、香川氏、安富氏、奈良氏が細川四天王となるなど勢いが盛んでした。
応仁の乱後、永正の錯乱などで細川京兆家が分裂すると、国人の安富氏や香川氏が勢力を伸ばし、阿波の三好氏と結んだ国人十河氏が讃岐を抑えローカル戦国大名となります。
しかし、十河氏は三好氏から養子を迎えていて、影響力から独立していたとは言い難く、以後、毛利氏、織田氏、長宗我部氏の介入を受け、ご当地戦国大名が残れずに江戸時代を迎えました。
香川県の県民性は「へらこい」とされ、利己的で小賢しく要領がいい一方で、考え方は緻密で合理的、温和で人当たりがよいとされますが、確かに戦国時代の推移を見ていると、独立した支配者になるより、他国の強豪の下で上手く立ち回ろうという点で県民性が出ているのかも知れません。
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