戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は鎌倉を紹介します。鎌倉時代に幕府が置かれた東日本の政治の中心だった鎌倉。室町時代になりやがて戦国時代に突入してからどう変貌していったのか。
都市機能としての鎌倉の状況を解説します。
この記事の目次
当時の鎌倉での人口
戦国時代の鎌倉の人口について確認したところ、結論から言えば情報が残っていません。参考までに鎌倉が政治の中心だった鎌倉時代の資料は残っています。それは次の通りです。
1200年(鎌倉時代初期)175,000
1250年(鎌倉時代中期)200,000
1300年(鎌倉時代後期)200,000
以降情報なし
鎌倉幕府が崩壊し、鎌倉時代が終わった直後はまだ都市機能を有していました。後醍醐天皇の建武の新政の中で、東日本の拠点として鎌倉将軍府(鎌倉公方)が置かれました。そのため引き続き政治の中心だったのですが、やがて室町幕府のある京の足利家と対立します。
戦国時代が始まる前から不安定な関東で勃発した1438年の永享の乱で鎌倉方が破れると、都市機能としての鎌倉が終焉します。引き続き統治していた鎌倉公方は存在しました。
しかし下総国古河に逃げ込んでしまいます。拠点が変わって以降は古河公方と呼ばれます。その後関東では、支配者により都市が変わります。後北条氏の小田原城、徳川氏の江戸城です。
その中でも北条早雲は小田原とは別に鎌倉の復興を行いました。しかしかつての勢いはなく、やがて衰退。
その後は徳川家康が江戸に町を形成したために、鎌倉が歴史の表舞台から消えます。そして鎌倉は関ケ原の合戦のころには、名もなき小さな村のような存在でした。
関連記事:平家は一日にして成らず苦労して成りあがった平家ヒストリー
関連記事:倭寇とはどんな人?海賊?商人?アジアを股にかけた無国籍人
戦国時代の鎌倉を主に支配していた者・豪族
戦国時代に鎌倉とその周辺を支配していたのは次の勢力です。
鎌倉公方・足利氏
扇谷上杉氏(太田道灌)
北条氏
徳川氏(本多正信)
鎌倉時代の後、南北朝時代に鎌倉将軍府が設置されました。そののち鎌倉府と呼ばれるようになり、鎌倉公方の足利氏が支配します。しかし戦国時代が始まる少し前から京の足利将軍家と対立。1455年に享徳の乱が発生すると、鎌倉公方は古河に逃亡し、以降は古河公方になります。
その後、鎌倉を支配していたのは鎌倉公方の家臣の扇谷上杉家です。関東管領として君臨し、その家宰だった太田道灌が力を伸ばしていきます。道灌は現在の鎌倉・英勝寺付近に屋敷がありました。しかし道灌は主君の上杉により惨殺。
上杉氏はやがて衰退し、台頭してきたのが北条氏(後北条氏)です。上杉は追い払われ、北条早雲が鎌倉を支配。北条氏の本拠地は小田原ですが、早雲は鎌倉の玉縄地域に玉縄城を築きました。
やがて豊臣秀吉による大軍で後北条氏が滅びると、徳川家康が支配します。その際に玉縄城は家康の家臣・本多正信の居城となりました。そして江戸時代初期には松平正綱が領有しています。
関連記事【アンゴルモア元寇合戦記】鎌倉時代の文学はどんなもの?
応仁の乱から家康の天下統一までに鎌倉で何が起きていたか?
応仁の乱前後から徳川家康が天下を支配するまでの間に博多で起きた主な出来事です。
- 鎌倉公方と室町幕府の対立
- 1438〜39年に勃発した永享の乱で鎌倉公方足利持氏が死亡
- 1455〜83年に勃発した享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が古河に逃亡
- 1483年江戸城を築城し、鎌倉に屋敷を持っていたた太田道灌が暗殺
- 扇谷上杉氏の支配
- 1493年扇谷上杉と山内上杉との抗争のタイミングで伊勢宗瑞(北条早雲)が台頭
- 1513年北条早雲が玉縄城を鎌倉に築城
- 後北条氏にとって安房里見氏や相模三浦氏からの防御拠点として鎌倉が機能
- 1590年の秀吉の小田原攻めにより、玉縄城主北条氏勝は徳川家康軍に包囲され降伏。以降は家康の家臣となる。
- 徳川家康の関東入封により、家康側近の本多正信の支配となる。
- 江戸初期に玉縄藩が立藩され、松平氏が所有。
関連記事:鎌倉時代の悪党とはどんな人たち?アウトローな連中だった?
関連記事:【アンゴルモア元寇合戦記】元寇とは?鎌倉時代の防衛戦争
なぜ鎌倉は首都になれなかったのか
鎌倉が首都になれなかった理由ですが、天皇が住まう都(首都)は、明治維新まで近畿地方から出ていません。ただ鎌倉時代には政治の中心であった事実があり、場合によっては今の東京のような存在になりえた可能性があります。
それが実現しなかったのは、戦国時代には鎌倉の都市機能が、小規模なものになっていたことが挙げられます。鎌倉時代が終わって南北朝時代から室町にかけては東の政治の拠点として鎌倉公方が居ました。
しかし永享の乱、享徳の乱を通じて力を失った鎌倉公方は鎌倉を捨てて、古河に逃亡します。そして太田道灌は鎌倉に屋敷はあるものの江戸に城を作り、またそのあと関東を支配した北条氏は小田原を拠点にしました。
その後秀吉により制圧された後に関東に入った徳川家康。彼は小田原にも鎌倉にも目をつけず江戸を拠点としました。これが最大の理由です。ちなみに家康が江戸を拠点にした理由ですが、当時の江戸は低湿地地帯で拠点にしずらい場所でした。ところが家康は地理上から江戸が有利と判断。海に面しており、関東各地からの川の河口に当たる場所であることで、水運を利用すれば発展すると考えたからです。
そして江戸城の改築工事から初め、新都心として江戸の町を開発・発展させました。
鎌倉時代:鎌倉武士がボンビーになった理由は給与制度にあった!
鎌倉の経済面について
鎌倉時代から鎌倉公方がいる時代まで政治の町として機能し、多くの商人がやってきた鎌倉は、公方が古河に逃亡してから都市の機能が減退しました。それでも後にこの地に支配した北条氏は、小田原を拠点としながらも鎌倉にも玉縄城を築城。この地に北条の一族が城主となります。以降鎌倉は小田原を守る拠点のひとつとなりました。
そんな中、鶴岡八幡宮をはじめとする鎌倉の寺社の保護、再建を進めました。このときに活躍したのが鎌倉に在住していた職人たちです。彼らは寺社を再建しながら北条氏の庇護を受けました。そのため鎌倉を拠点に長く活躍しています。
また商人については鎌倉時代から南北朝時代にかけては鎌倉七座が存在していました。それは次の7つです。
- 絹座
- 炭座
- 米座
- 檜物座
- 千朶積座
- 相物座
- 馬商座
戦国時代にこれらの座がどうなったのか記録が残っていませんが、鎌倉公方が逃亡してから消滅したものと推測されます。その後玉縄城を築城した後は、行商人などが城下にいたことも考えられますが、明確な資料は残っていません。
関連記事:鎌倉時代の武士は何を食べてたの?当時の食べ物を紹介
関連記事:鎌倉時代に使われていた貨幣とは?
地震や津波などの自然災害について
鎌倉の自然災害ですが、歴史的に震災の記録が多く、代表的なのが鎌倉時代の1293年にマグニチュード8クラスの鎌倉大地震により23000人程度の死者が発生したことです。そして戦国時代には鎌倉を含む広く東海道沖に大震災が発生しました。
1498年9月11日に発生した明応地震は、いわゆる「南海トラフ」による大震災と推定されています。規模はマグニチュード8.6で震度6を記録。そして震災と同時に津波が襲来しました。鎌倉大日記にも記載があり、津波の推定の高さは8〜10メートルほどのものが襲いました。
その破壊力はすさまじく、海から2キロほど離れたところにある鶴岡八幡宮にまで到達。さらに一説によれば高徳院の大仏殿を破壊し、鎌倉の大仏が露坐の状態になったとされます。
またこの地震・津波では戦にも影響しました。当時この地域では伊勢盛時(北条早雲)と堀越公方・足利茶々丸が対立しておりました。津波の被害で戦いが不利になる判断した盛時は早い段階で動員可能な兵を率いて伊豆・深根城にいた茶々丸を急襲。一気に攻め滅ぼしたとの記録が残っています。
関連記事:鎌倉時代は仏像にリアルさを求めた!?
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
鎌倉時代には幕府が置かれ政治の中心だった鎌倉。その後も、室町幕府の東の拠点として鎌倉公方がしばらく鎮座し、都市機能を有していました。しかし戦国時代に入るころには幕府と対立し公方は古河に逃亡。以降は都市の衰退の一途をたどります。
この地域を支配した北条氏は拠点を作り、寺院の復興が行われましたが、最終的に東の江戸に目をつけた徳川家康がそちらに新都市を構築したため、鎌倉は歴史の舞台から静かに消えました。
関連記事:江戸時代の刑務所の食事とは美味しかった?どんな献立だったの?
関連記事:鎌倉時代の警察の役割を果たした「守護」を分かりやすく解説
関連記事:鎌倉時代のポピュラーな産業や経済は?高利貸業も盛んになった鎌倉時代