戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は平戸を紹介します。日本の西北にある平戸は大小島がある地域。平安時代から一貫して松浦氏が勢力を保っていました。そんな平戸の戦国時代での状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における平戸の人口
戦国時代の平戸の人口ですが、記録はほとんど残っていません。ただ宣教師たちがヨーロッパから平戸に来て布教活動をしました。その関係で彼らによる平戸の人口についての記録が残っています。ガスパル・ビレラによれば、1571(元亀2)年に5000人のキリシタンが平戸にいました。
また1584(天正12)年に来航したフライ・パブロ・ロドリゲスの情報では、2000人平戸に住んでいると記録。一般的に1石が年間で大人ひとりが食べる米の量と計算できます。1600年の段階で家康から安堵された平戸藩6万3000石より計算すると領内には63000人程度住んでいたことになります。
戦国時代の平戸を主に支配していた者・豪族
戦国時代に平戸を支配していたのは、主に次の勢力です。
・松浦氏
平戸のある肥前の国は、鎌倉時代から室町時代にかけて少弐氏、一色氏、渋川氏と言った守護が交互に治めていました。しかし実質的に平戸のある松浦地区を支配していたのは彼ら守護ではなく、松浦党と呼ばれる集団でした。
松浦党は嵯峨源氏を流れを汲み、摂津の国の水軍として瀬戸内を支配した渡辺氏の分派と言われています。平安中期の武将・渡辺綱の曾孫が松浦氏初代の松浦久で1064年の生まれ。最初は松浦郡宇野御厨の荘官としてスタートしました。
また久以前の勢力の存在や、奥州安倍氏の残党も合流したとされ、48の一族に分かれて一つの集団を形成しました。それを松浦四十八党と呼ぶことがあります。松浦党は中央政界の有利な側に味方をしながら南北朝時代を生き残り、また松浦一揆と呼ばれる反乱をたびたび起こしています。
さらに時代が進むと移住地域によって上松浦党と下松浦党に大別。佐賀県唐津市にあった岸岳城は、久以来の拠点として上松浦党が支配。やがて波多氏を名乗って四百年続きましたが、17代当主波多親は、朝鮮出兵での勝手な振る舞いが、秀吉の怒りを買い改易されました。
一方下松浦党では、嫡流よりも傍流だった平戸松浦氏が、平戸を拠点に勢力を伸ばします。最終的に松浦半島を統一しました。松浦隆信は、当初大内氏に仕えていましたが、大内氏が滅亡すると大友氏に乗り換えます。
当時の平戸には明の商人や倭寇たちが屋敷を構えていました。これにポルトガルの南蛮貿易が加わります。
またフランシスコザビエルが布教のために平戸に来ると直ちに布教活動を許可。一緒にやってきた貿易船のおかげで莫大な利益を得ました。
ただ隆信自身は改宗しなかったため、他のキリシタン大名・大村氏の拠点である長崎に貿易船の多くが移ってしまいます。その後大友氏と対立していた龍造寺氏の傘下に。ところが島津氏が龍造寺を倒したことで独立します。
次の鎮信の時代になると、畿内で急速に勢力を伸ばした豊臣秀吉に接近。それは秀吉を喜ばせる結果となります。その結果、秀吉の九州平定に秀吉側として参戦。豊臣政権内で安定的な地位に昇りつめます。朝鮮出兵でも大活躍。
秀吉没後に起きた関ケ原の戦いでは、すでに家督が譲られていた27代目の久信が西軍側についていました。それに対して父の鎮信は、東軍に加わると決めます。その結果、戦後に家康に責められることなく所領が安堵されました。
こうして江戸時代は松浦藩が立藩。明治維新まで続きました。
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応仁の乱から家康の天下統一までに平戸で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に平戸で起きた主な出来事です。
- 1069年 渡辺久が松浦郡に所領をもらい松浦の苗字を名乗る。
- 1466年 23代松浦正が誕生。生月島や北松浦半島に勢力を伸ばす。
- 1486年 正、田平の地を平定。
- 1491年 有馬、小弐、同じ松浦党の松浦定らの諸勢力に攻められ、正が大内義興を頼る。ここで義興により弘定の名をもらう。
- 1497年 義興の遠征により小弐氏が攻め滅ぼさせられ、有馬たちを威嚇。弘定が平戸の地を回復。
- 24代松浦興信は、大内氏に仕えながら、李氏朝鮮や明と交易し、莫大な利益を得る。
- 1541年 興信の急死により嫡男隆信が2年後に25代目の家督を継ぐ。
- 倭寇の王直の仲介によりポルトガル船が平戸に寄港。
- 1550年 フランシスコザビエルが平戸に来て、日本で初めて布教が許される。
- 1563年 長く対立していた同族の相神浦松浦家の従属に成功する。
- 1568年 隆信は26代鎮信に家督を譲りながら実権を握り、3年後に壱岐を支配下に置く。
- 1584年 薩摩の島津氏により当時隷属関係にあった龍造寺氏が滅ぼされ独立する。
- 1587年 いち早く豊臣秀吉に接近し、九州平定に参陣。秀吉に所領を安堵される。
- 朝鮮出兵に鎮信が参戦。小西行長の一番隊に属して7年間活躍する。
- 家督を27代久信に譲る。
- 関ヶ原の合戦で久信は西軍につくも鎮信が東軍についたため、戦後おとがめなく所領を安堵。
- 平戸藩として6万3000石を領有。明治維新まで続く。
なぜ平戸は首都になれなかったのか?
平戸が首都になれなかった理由は場所によるところが大きいです。確かに中国などの大陸に近いので貿易は活発な港。また実際に南蛮の船が到来し、平戸が廃れても近くの長崎が江戸時代を通じて外国の玄関だった時代がありました。それでも大陸に近いと逆に攻められやすいというデメリットがあります。そのためこの地に首都が来る可能性は限りなく低いでしょう。
また平安時代から明治に至るまでこの地を治めていた松浦氏は、戦国大名になったとはいえ、完全に独立していた時期は限られておりました。豊臣秀吉の前も、龍造寺、大友、大内と言った大大名の傘下。したがって松浦氏が天下を取るという可能性は限りなく小さく、そういう意味で幕府ができることが困難と推測されます。
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平戸の経済面について
戦国時代の平戸の経済は、交易につきます。大陸に近い場所を利用して大陸の明や朝鮮王朝との交易をはじめ、いわゆる倭寇との取引も多かったです。倭寇は海賊のイメージがありますが、実質的には非公式の商人。
王直と呼ばれる人物は、倭寇の頭目でありながら、ポルトガル人を日本に案内した人物です。一説では彼が種子島に鉄砲をもたらしたとさえ言われています。そしてキリスト教の布教を認めたことで、ポルトガル船が平戸に来る大きな要因となりました。
松浦隆信は南蛮貿易で巨額の富を手に入れました。一時期はポルトガルのアジア方面の司令官だったカピタン・モールが管理する定期船を平戸とマカオなどの植民都市を結びます。
ただ戦国末期になると、長崎に勢力を持っていた大村純忠が、日本初のキリシタン大名となります。そのことで諸外国や宣教師たちの支持を得たこともあり、南蛮貿易の主力が平戸から長崎に移動してしまいました。また戦国の後期には、呂宋のマニラや暹羅(シャム:タイのアユタヤ朝)との交易をしたという記録が残っています。
地震や津波などの自然災害について
戦国時代の平戸の自然災害について、地震及び津波についての記録がありません。噴火についても近くに活火山がなく皆無です。台風については19世紀以前の記録がほとんど残っておらず、わかりません。
ただ元寇のときに元・高麗連合軍が襲ったのは台風。さらに江戸時代にシーボルト台風という名前で、北九州一帯に高潮が発生したという記録が残っています。したがって戦国時代にいくつかの台風が平戸に飛来した可能性は十分にあり得ます。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の平戸は戦国時代に限らず、中世を中心に代々松浦党が支配していた地域。戦国大名としてのし上がった平戸松浦氏が最終的な支配者となりました。秀吉や家康とのやり取りもうまくやって、家を残すことに成功し、明治維新まで平戸の領主として町を反映させました。
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