戦国時代の日本の中心「畿内」から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は駿河国(静岡県)にある駿府を紹介します。戦国時代に今川氏が独特の雅な文化を花開かせ、後に徳川家康が隠居の場として拠点を強いた駿府。都市としての駿府の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における駿府の人口
最初に年代別の駿府の人口を紹介します。応仁の乱から家康の時代までの戦国時代における駿府の人口について1530年に1万人いたことと、1600年に10万人いたこと以外、明確な記録は見つかりませんでした。
それでも今川氏が支配していた戦国の中期ごろまでの時代は京都から公家や文化人が逃れてきていたため雅な雰囲気に満ちていた事実。また桶狭間の合戦の直前、今川義元が2万5千もの大軍を尾張に向けて率いていたので、そのころには人口は数万程度いたことが想定されます。
また今川氏が武田氏に攻められたときに、駿府の町が焼き払われしまいました。その際に人口が一時的に減少したと考えられます。やがて家康が駿府を拠点にして街を整備してから再び増加傾向に転じました。
家康が関東に入封され、代わりに入ってきた豊臣系大名の中村氏の支配を経た後、再び大御所として家康が駿府を居城としたときには、江戸以上に実質的な政治の中心地ということもあって、急速に人口が増加しています。そのころの駿府では江戸や大坂に次ぐ都市規模で10万から12万程度。しかし家康死後の駿府は徐々に人口を減らし、江戸の末期のころには3万程度に落ち着きました。
戦国時代の駿府を主に支配していた者・豪族
戦国時代に駿府を支配していたのは、主に次の勢力です。
・今川氏
・武田氏
・徳川氏
・中村氏
駿府は古代から駿河国の国府が置かれ地域では栄えていました。鎌倉時代は、本拠地の鎌倉に近いことから伊豆国とともに北条氏が支配していました。室町時代に入り、足利尊氏のそばで使えていた今川範国は、駿河と遠江の2か国の守護を命じられ、以降代々今川家がこの地を支配します。
そして駿府は今川の城下町となりますが、ここに京の都を模した街づくりを行いました。応仁の乱以降、駿府は京から逃れてきた公家や文化人の受け入れ先となります。一時は「東国の京」との異名を持つほどに発展しました。後に江戸幕府を開く家康も幼少のころに駿府で過ごしています。
ところが義元が桶狭間の戦いで織田信長に打ち取られると状況が一転。当面は氏真が支配していましたが、以前のような力がなく、甲斐の武田信玄が進軍。今川氏は滅び、駿府は武田騎馬隊によって焼き討ちに遭ってしまいます。
駿府は東の後北条、西の徳川を見据える拠点となりました。しかし今度は武田氏が織田徳川連合軍により滅ぼされると、徳川家康の支配下になります。1585年に家康は浜松から駿府に拠点を動かし、再び駿府に住み始めます。そして城下を整備しました。
ところが1590年に豊臣秀吉の命により、家康は関東に入封。変わって入ってきたのが中村一氏です。これは秀吉にとって、家康への抑え意味がありました。しかし関ケ原の合戦で、一氏は家康側の東軍として活躍。江戸時代になると将軍を秀忠に譲った家康が、隠居の場として3度駿府に戻りました。
応仁の乱から家康の天下統一までに駿府で何が起きていたか?
応仁の乱の少し前から徳川家康が天下を支配するまでの間に駿府で起きた主な出来事です。
1.初代今川範国が駿河・遠江2か国の守護になる。
2.4代今川範政の時代に鎌倉公方を守護し副将軍に。将軍足利義教を駿府で饗応。
3.5代今川範忠の時代に鎌倉を攻撃し、鎌倉公方を古河に追い払った。
4.8代今川義忠の時代に堀越公方の援助、遠州の出征にて討ち死に。
5.今川家家督の代行として小鹿範満が駿府の今川館に入る。
6.幕臣の伊勢盛時(北条早雲)が今川館を襲撃し範満を殺害。今川氏親が9代目として家督継承。
7.11代目の今川義元の治世で駿府に京文化入る。徳川家康を人質として駿府に留め置き、三河と尾張の一部を支配下に。
8.桶狭間の戦いで義元討ち死。12代目として今川氏真が継承。
9.武田信玄により駿河侵攻。氏真が掛川に逃亡後に今川氏滅亡。駿府は焼き討ちに。
10.武田氏滅亡後、家康が駿河を侵攻。そのまま支配して拠点を駿府に移す。
11.秀吉の命により家康関東入封後、石川一氏の支配下に。
12.関ケ原の合戦の後、家康の譜代大名内藤信成が駿府藩主に。
13.家康が将軍を秀忠に譲った後、隠居地として駿府に滞在。
なぜ駿府は首都になれなかったのか?
首都として1000年続いた京都から天皇家が動かなかったことが最大の理由ですが、戦国時代の京都は荒れ果て、多くの公家が地方に逃げていきました。その中でも足利将軍家に近い今川氏が支配する駿府には、多くの公家や文化人が逃げてきており、雅な空気に満ち溢れていました。
もしその時に天皇家が駿府に避難という事態が想定されれば、首都移転がありえたのかもしれません。そして次に家康の支配に変わってからです。家康は江戸に幕府を開きますが、1年で子の秀忠に将軍位を譲ると、自らは隠居の立場で駿府に住みました。
1600年ごろは新興都市だった江戸よりも昔から存在していた駿府のほうが都市規模が大きかったです。家康が幼少のころから慣れ親しんでいた駿府を拠点に、実質的な政治を動かしていたことから、事実上首都の役目を果たしていました。しかし家康亡き後歴代徳川将軍家は、将軍の代が変わって大御所になっても、江戸城の西の丸にとどまったため、駿府の機能は低下していきました。
もし家康が秀忠以降、将軍位を譲った大御所の隠居の場として駿府を決めるようなことを行っていたのなら、状況が変わったでしょう。江戸と駿府の二大都市が機能していた可能性があります。
駿府の経済面について
経済の面で見た駿府ですが、やはり家康が大御所として駿府に居を構えたときが、最も経済が盛んで、当時の江戸をもしのぐ勢いがありました。背景に駿府町奉行として町の整備を進めていた彦坂光正。それを手助けした駿河の豪商・友野宗善の活躍があります。
友野家は代々駿府の商人として活躍しており、今川氏の時代から続いていました。今川義元が1553年に友野次郎兵衛に発給した判物(義元の花押が付された文書)が見つかっています。当時から友野座と呼ばれるものを有しており、駿府の商人たちを実質的に支配ていたことが伺われます。今川の後の武田、徳川、中村と領主が変わっても友野の地位は保証され、代々駿府の経済の主導的な地位にいました。江戸時代には代々町年寄りを務めています。
地震や津波などの自然災害について
戦国時代の駿府で発生した災害で代表的なものは、明応地震です。これはいわゆる南海トラフの巨大地震と推定されているもので、1498年9月11日(明応7年8月25日)に発生しました。
東海道・駿府沖が震源地でマグネチュードは8.6と推定されており、関東から近畿にかけて被害が出ました。また大津波が押し寄せます。推定10メートル以上のものが襲いました。標高36メートルの地点にヒラメが打ち上げられたとか、浜名湖の今切口が開いたなどの伝承が残っています。
さらに『日海記』では「海辺の堂社仏閣人宅はことごとく水没し死す」との記録があり、当時の水害の激しさが伺えます。ちなみに震災のあったときに駿府を支配していたのは今川氏親です。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の駿府は戦国時代の後半までは代々今川氏が支配していました。氏親のころに御家騒動があったものの、義元の時代までは公家や文化人が逃げられる場所として比較的安定していました。しかし桶狭間で信長に打ち取られてから混乱期に入り、途中の武田氏の支配を経て徳川氏のものとなりました。
安土桃山時代を経て江戸時代に入ると再び家康が入り、大御所として君臨するだけでなく駿府の町自体が江戸をしのぐ大都会として活躍しました。