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岐阜県の戦国時代を解説!土岐、斎藤、織田の大名がいるのに地味なのは徳川のせい?

28/06/2022


日本史01 煙を吐く工場

 

岐阜県はちょうど日本の中心に位置し、日本のへそと呼ばれます。

 

古くから東西日本を繋ぐ文化の大通りであり、壬申(じんしん)の乱や小牧・長久手の戦い、関ケ原の戦いなど、日本の歴史を動かす大戦争の舞台となり、織田信長が天下布武を唱えた土地です。

 

しかし、そんな岐阜県も歴史と言われると隣の愛知県と混同されぼんやりした感じに…そこで今回は岐阜県の戦国時代を中心に廃藩置県までを解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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およそ3万年前から人々が住んだ岐阜

 

岐阜県域には約3万年前の後期旧石器時代には人が住み始め濃尾平野北辺郡の段丘上(だんきゅうじょう)や大地に人々の生活の痕跡が残されています。

 

代表的な旧石器時代の遺跡には日野遺跡(ひのいせき)寺田遺跡(てらだいせき)椿洞遺跡(つばきぼらいせき)などがあります。これらの遺跡からは石を割って出来る剥片で出来たナイフ形石器や削器、尖頭器や調理に使用した瓦石のような礫郡や加工跡がある木片など生活用具が確認されました。

 

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貧しい飛騨と豊かな美濃で構成された岐阜

関所

 

岐阜県は、岐阜県南部にあたる美濃地方と北部にあたる飛騨地方で構成されています。

 

特に美濃地域は、西濃、岐阜、中濃(ちゅうのう)地域のほとんどと東濃(とうのう)地域北部と飛騨南部を流れる木曽川(きそがわ)鵜飼(うかい)で有名な長良川(ながらがわ)揖斐川(いびがわ)、庄内川、矢作川(やはぎがわ)と水にも恵まれ、濃尾平野の土壌が肥えた土地で国力が高く早くから東国との境界である不破関(ふわのせき)が設けられました。

 

明治天皇

 

岐阜地域を地盤とする古代豪族は経済的、政治的に大きな勢力を持ち、中濃のムゲツ氏などの豪族は奈良初期の壬申の乱において大海人皇子について戦い、天武天皇の即位に重要な役割を果たします。

 

奈良から平安にかけて同じ東山道に属した隣国の飛騨国が山だらけの地形である事から格付けで下国(げこく)とされたのに対し、美濃は一等国の「上国(じょうこく)」にランク付けされ華やかな仏教文化が栄えました。

 

実際に美濃の石高が54万石であるのに対し、飛騨は3万8千石と1/10以下であり、経済的な繁栄では美濃が飛騨地域を上回っています。

 

比叡山の僧兵(僧侶)兵士

 

平安末期には郡上長滝(ぐじょうながたき)の天台宗白山長滝寺(はくさんながたきでら)が山岳信仰の中心となり多くの僧兵を抱え、美濃や飛騨に荘園を経営する一大政治勢力に発展します。

 

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大和朝廷

 

 

美濃源氏から土岐氏が登場

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

岐阜県は河内源氏にもゆかりが深い土地です。平安時代中期に源満仲(みなもとのみつなか)河内国壷井(かわちのくにつぼい)に本拠地を置いて河内源氏を起こした時、満仲の嫡男である源頼光(みなもとのよりみつ)頼邦(よりくに)親子は美濃守を受領し摂津源氏(せっつげんじ)を起こしました。

 

頼光の孫の源頼綱(みなもとのよりつな)多田源氏(ただげんじ)を名乗り、頼綱の弟である源国房(みなもとのくにふさ)と三男国直(くになお)の子孫から美濃源氏が派生します。

 

国房の子である光国(みつくに)は源義家の弟の源義綱(みなもとのよしつな)一族追討事件で孫にあたる源為義(みなもとのためよし)と共に追討の任にあたり、その手柄で光国の子、光信が鳥羽法皇(とばほうおう)に取り立てを受けて北面武士となります。

 

木曾義が平家に敗北したチャンスを逃さない後白河法皇.jpg

 

その後、光信の地位は弟の光保(みつやす)が引き継ぎ、保元の乱では後白河天皇方について勝利。平治の乱では二条天皇側について信西(しんぜい)を討つ大功を挙げます。しかし、永暦元年(1160年)に後白河院の命を狙ったという罪状で誅殺されました。

 

光保の子である源光長は治承4年(1180年)治承寿永の乱で美濃源氏を率いて反平家を掲げ挙兵します。

 

平家は平重衡(たいらのしげひら)が盛り返し美濃源氏との戦いは一進一退になりますが、北陸道を拠点にする源義仲が倶利伽羅峠(くりからとうげ)で平維盛を破ると形勢が逆転しました。

 

松明を付けた牛を突っ込ませた木曾義仲.jpg

 

光長は義仲に従い上洛を果たしますが、義仲と後白河法皇が不仲になると後白河法皇に味方して法住寺合戦で多田源氏や尾張源氏と共に奮戦し戦死します。

 

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はじめての平安時代

 

 

源光衡が頼朝に仕えて御家人となり土岐氏を開く

鎌倉を拠点にした源頼朝

 

光長の子の光衡(みつひら)は鎌倉幕府の成立に伴い源頼朝に仕えて御家人となります。

 

後鳥羽上皇

 

承久(じょうきゅう)3年(1221年)の承久の乱では美濃の墨俣(すのまた)が主戦場となり光衡も出陣しますが、弟の光時は土岐判官代として後鳥羽上皇についていたようです。光衡の子の光定は鎌倉幕府9代執権、北条貞時の娘を妻とするなど有力御家人だった様子がうかがえます。

 

第3代執権に就任した42歳の北条泰時.jpg

 

北条氏が土岐氏を重んじた理由としては、美濃は源頼綱の一族ばかりではなく、多くの美濃源氏や多田源氏が土着していた事があります。

 

このような美濃源氏及び河内源氏は鎌倉幕府の重鎮となった土岐氏を中心に桔梗一揆と呼ばれる武士団を形成し鎌倉幕府も土岐氏を頼りにしたようです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

美濃、伊勢、尾張三ヵ国の守護になる

美濃、尾張、伊勢

 

嘉元3年(1305年)光定の子の蜂屋定親(はちやさだちか)が北条時村襲撃事件に関与して処刑されます。幸い、兄の頼貞には累が及ばず、以後は頼貞の家系が土岐氏の嫡流となりました。

 

命拾いした土岐頼貞は、元弘元年(1331年)に足利尊氏と新田義貞の挙兵で尊氏に味方します。その後の南北朝の騒乱でも、頼貞は尊氏と共に転戦して武功を挙げ、美濃守護に任じられ足利将軍家を支える有力な武士団に成長しました。

 

土岐氏は頼貞の孫、頼康の時代に尊氏、義詮に味方し、本拠地である美濃以外にも尾張と伊勢の守護職を兼任する大大名になり最盛期を迎えました。

 

関連記事:室町幕府が弱いのは極端な実力主義のせいだった!

 

北条政子

 

 

岐阜市を繁栄させた土岐氏

仙台城

 

美濃国内においては、頼康は叔父が新築した長森城(ながもりじょう)が手狭であるとして同じ厚見郡内(あつみぐんない)川手城(かわてじょう)を築きます。

 

以来、川手城は室町期を通じて13代、頼芸に至るまで土岐宗家の居城となりました。現在の岐阜市にあった川手城下には町が形成され、商人や職人が移り住み京都に次ぐ賑わいを見せたそうです。

 

 

足利義満の謀略で土岐氏は二分し領地も削減

足利義満

 

しかし、将軍権力が弱い室町幕府は、強大な守護の勢力を削る手法を度々取っていました。特に3代将軍、足利義満は幕府権力の強化の為に容赦がない守護イジメを開始し、山名氏や今川氏も毒牙(どくが)を免れませんでした。

 

義満は、土岐氏の勢力削減にも乗り出し頼康死後に家督を継いだ土岐康行(ときやすゆき)に対し、美濃と伊勢の領有しか認めませんでした。そして、宙に浮いた尾張については康行の弟の満貞(みつさだ)に相続させ、兄弟間の憎しみを煽ります。

 

土岐康行は、この仕打ちに我慢できず義満の思うつぼに土岐康行の乱を起こして敗北。美濃守護職は康行の叔父の頼忠(よりただ)に与えられ、伊勢守護職も仁木氏(につきし)に与えられます。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

こうして土岐氏は頼忠の系統へ移り、伊勢守護を失い美濃1国から再スタートしました。しかし土地を失った康行は逆に奮起し、明徳の乱で幕府方に参戦して手柄を立て伊勢守護に復帰します。

 

この伊勢国を継承した康行の系統は土岐世保家(ときよやすけ)と呼ばれ、美濃守護を相続した頼忠の系統は土岐西池田氏(ときにしいけだけ)と呼ばれます。

 

一方、美濃守護を相続した満貞は卑怯な振る舞いがあったとして尾張守護を解任となり没落。尾張守護は斯波氏に奪われました。

 

義満の思惑で、土岐世保氏と分裂し領地が美濃一国となった土岐氏ですが、頼忠の子の頼益は優れた武将で度々戦功を立て、幕府七頭の一家として評定衆に列し、侍所別当として幕閣の重鎮となります。

 

関連記事;【麒麟がくる】土岐氏が斎藤道三に頭が上らない理由を解説

 

織田信長スペシャル

 

 

美濃で守護代、斎藤氏と富島氏が抗争

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

新たに美濃守護となった頼忠ですが、多くの家臣が土岐世保家に流れていった事情から外様の富島氏(とみしまし)と斎藤氏を守護代として重用します。

 

しかし、頼益(よります)の子、持益(もちます)の時代になると富島氏と斎藤氏の争いが美濃全土を巻き込む内乱、美濃錯乱へ発展しました。内乱は斎藤氏が勝利し守護代を単独で継承して美濃の実権を握り、持益は隠居に追い込まれ、斎藤利永が擁立する庶流の成頼(なりより)が守護となります。

 

応仁の乱が起きると、成頼は西軍に参加して京都に向かい美濃は斎藤氏の独壇場となりました。

 

 

斎藤妙椿が活躍し土岐氏はお飾りに

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)武士

 

特に斎藤利永の弟、斎藤妙椿(さいとうみょうちん)が活躍し美濃の東軍方の富島氏を駆逐した上に、公家の荘園や国衙領を盛んに押領(おうりょう)して国内を制圧。尾張、伊勢、近江、飛騨まで勢力を伸ばし、越前の朝倉孝景と共にこの時代の下克上の代表として有名になります。

 

しかし、妙椿が文明12年(1480年)に死ぬと守護代斎藤家の家督争いと守護成頼の後継者問題が重なり、文明美濃の乱が勃発。それぞれが隣国の守護や守護代の加勢を頼んだせいで、国内は近江の京極、尾張の織田、越前の朝倉氏の介入を受けてグチャグチャになります。

 

末子の元頼(もとより)を担いだ成頼は敗北して強制隠居に追い込まれ、廃嫡された土岐政房が守護となりました。

 

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美濃のマムシ、斎藤道三が台頭

鎧兜姿の斎藤道三

 

ところが、兄弟間の相続争いで苦労して守護になった土岐政房も再び嫡男の頼武(よりたけ)を差し置いて次男の頼芸(よりのり)に家督を継がせようとし後継者争いが再燃します。

 

この戦いでは越前朝倉氏の援護を受けた頼武が勝利し、永正16年(1519年)に守護に就任しました。

 

美濃守護代は斎藤妙椿の弟の斎藤妙純(みょうじゅん)が継ぎますが、斎藤氏庶流の長井長弘(ながいながひろ)と、その家臣の松波庄五郎(まつなみしょうごろう)が頭角を現し享禄3年(1530年)に頼武を追放し頼芸を迎え入れます。そして、松波庄五郎の子、長井規秀(ながいのりひで)が斎藤家を継ぎ斎藤利政と名を改めました。

 

やがて利政は出家し戦国の梟雄(きょうゆう)として名高い斎藤道三を名乗ります。力を蓄えた道三には、すでに土岐頼芸も要らなくなっていて、天文21年(1552年)頃に追放、美濃土岐氏は没落します。

 

斎藤義龍に討たれる斎藤道三

 

道三の政治は残酷で強権的だったようで、土岐国人は息子の斎藤義龍を担いで道三に叛きました。こうして長良川の戦いで道三を殺した義龍は、当初は頼芸の落胤(らくいん)を名乗りますが、やがて室町幕府に接近してより高い四職(ししき)一色氏(いっしきし)を名乗ります。

 

ともあれ、こうして、鎌倉時代より桔梗一揆で勢力を維持してきた土岐氏は美濃から勢力を消す事になりました。

 

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武田信玄

 

 

飛騨国の状況は?

戦国時代の武家屋敷b

 

ここで岐阜県域の北部である飛騨国の戦国時代を見ていきましょう。

 

飛騨は守護大名京極氏(きょうごくし)と公家の姉小路家(あねこうじ)の支配する土地でした。

 

戦国時代に入ると、三木直頼(みきなおよおり)という素浪人が登場。京極氏や国司の姉小路氏の内紛に付け入り、隣国の美濃土岐氏と結んで実力をつけていき飛騨国の南半分を領有します。

 

二代目の三木良頼(みきよしより)は天文23年(1554年)、直頼の死後に家督を相続。

 

当時、古川氏姉小路(ふるかわしあねこうじ)小島氏姉小路(こじましあねこうじ)向氏姉小路(むかいしあねこうじ)に分裂していた姉小路家の内紛につけこんで小島氏姉小路に味方して古川姉小路氏を滅ぼし、向氏姉小路を没落させると生き残った古川姉小路家に嫡男の三木頼綱(みきよりつな)を押し込んで乗っ取り工作を開始。

 

京都の公家に、多額の贈り物をした甲斐があり、永禄2年(1559年)嫡男の三木頼綱が姉小路家を相続し姉小路頼綱(あねこうじよりつな)となります。

 

3代目となった姉小路頼綱は政治的なバランス感覚に優れ、武田、上杉、織田の勢力を渡り歩いて勢力を維持しました。

そして、本能寺の変の翌年に念願の飛騨統一を成し遂げますが、その後、羽柴秀吉に敵対してしまい金森長近(かなもりながちか)の軍勢に攻め込まれ、戦国公家、姉小路家は滅亡してしまいました。

 

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はじめての戦国時代

 

 

織田信長の登場

天下布武を唱える織田信長

 

斎藤家による美濃の支配は、道三の孫の龍興(たつおき)で終わります。

 

龍興を追放して美濃を支配したのは隣国尾張の戦国大名、織田信長でした。信長は東西交通の十字路である美濃の重要性を認識。それまで稲葉山とされていた土地を金華山(きんかざん)と改称し稲葉山城を改築して岐阜城を築城します。

 

尾張と美濃を抑え、100万石を超える大名になった信長は、ここから天下布武の印判を使い始め、また当時、井ノ口とされた地名を岐阜に改めたとされます。

 

孔子と儒教

 

岐阜の岐は中国王朝発祥の地である岐山(ぎざん)で、ここから新しい国が始まると言う意味、阜は儒教の総本山がある曲阜(きょくふ)を意味し、天下が治まったら、ここから学問が始まるとする意味があるようです。

 

信長は城下町で楽市・楽座を始め商業の新規参入を促したので岐阜は大いに繁栄し、宣教師ルイス=フロイスは「バビロンの都に匹敵する」と感想を述べています。

 

安土

 

信長は岐阜城の天守閣に9年も住みましたが織田家の勢力が拡大すると、より京都に近い近江国の安土に安土城を築いて拠点を移しました。

 

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本能寺の変の特集

 

 

本能寺の変後、織田信孝の居城に

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

拠点を安土に移してから3年後、織田信長は本能寺において重臣明智光秀の謀反に倒れます。光秀もまた出自は美濃土岐氏と考えられていて、単純化すると尾張の信長が美濃の光秀に討たれたという構図です。

 

しかし、明智光秀も中国大返しで迅速に京都に帰還した羽柴秀吉の軍勢に山崎で討たれ、その天下は13日間に過ぎませんでした。

 

清須会議に参加する池田恒興 柴丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家

 

本能寺の変後、岐阜城は加治田城主(かじたじょうしゅ)で道三の子である斎藤利堯(さいとうとしたか)が占拠していましたが、清須会議で岐阜城が織田信孝に与えられる事が決定すると信孝に城を明け渡します。

 

織田信孝は美濃一国を与えられ、織田家の後継者となった信忠の子、三法師(さんぽうし)(織田秀信)の後見人となりますが、すぐに秀吉と仲違いし越前を領有する柴田勝家と結びます。

 

豊臣秀吉が調子に乗っているので内心キレてる柴田勝家

 

秀吉は信孝に対し三法師を安土城に移すから手放すように要求しますが、信孝は無視したので、秀吉はこれを口実に信孝を攻める事を決意します。

 

その後、羽柴秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで激突しますが、勝家は敗れて自害、秀吉は織田信雄に命じて岐阜城の信孝を包囲し、信孝は投降して岐阜城を明け渡しました。

 

三法師の身柄も秀吉に引き渡され、三法師は安土城主として近江に移動します。

 

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戦国時代の都市伝説特集

 

 

池田、豊臣、織田と主が変わり関ケ原後に廃城となる岐阜城

池田恒興

 

その後、岐阜城は美濃13万石を領有して大垣城主となった池田恒興(いけだつねおき)の子、池田元助(いけだもとすけ)が城主となります。

 

天正12年(1584年)今度は秀吉と織田信雄の間で紛争が起こり、信雄は徳川家康を頼り小牧長久手の戦いが勃発。この戦いで池田恒興と池田元助が戦死し、岐阜城は恒興の次男、池田輝政(いけだてるまさ)の城となりました。

 

それから6年後、転封で池田輝政は移動し、豊臣秀勝が岐阜城主となりますが、翌年には病死。織田信長の孫、織田秀信が美濃岐阜13万石を領有して岐阜城主に返り咲きました。

 

炎上する城a(モブ)

 

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで、織田秀信は西軍に味方して岐阜城に籠城、福島正則や池田輝政に攻められて落城します。

 

実質的な天下人となった徳川家康は、信長の息吹が残る岐阜城を忌み嫌って廃城を決定し、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に10万石を与えて加納城(かのうじょう)を築城させ、その資材として岐阜城の建材を流用したそうです。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

徳川幕府は美濃の豊かさを恐れモザイク統治

天下を収めた徳川家康

 

江戸時代に入ると、徳川幕府は単体でも54万石と石高が大きく、御三家の尾張藩に隣接する美濃国を脅威と考え、幕府領と幾つかの小藩で分立するモザイク統治で弱体化しようとします。

 

美濃国内には、10万石で最大の大垣藩の他、苗木藩(なえきはん)、岩村藩、郡上(ぐじょう)藩、高富藩(たかとみはん)、加納藩、大垣新田藩や尾張藩付け家老、竹腰氏の今尾藩、尾張藩分家の高須藩(たかすはん)、美濃に一部領地を持つ藩としては、尾張藩12万石、磐城平藩、備中岡田藩が領地を持ちました。

 

大名以外にも旗本知行地として、明知遠山氏(あけちとおやまし)や交代寄合の竹中氏陣屋が複数存在します。

 

岐阜県域の北部である飛騨国は、姉小路氏が滅ぼされてからは、金森氏の支配する飛騨高山藩(ひだたかやまはん)がありましたが、元禄時代に山林資源や鉱山資源に目をつけた幕府が藩主の金森氏を上山藩(かみのやまはん)に転封し、その後は幕府直轄領として高山陣屋の飛騨郡代が支配しています。

 

また、江戸時代には律令時代から整備された東山道を元に各地の戦国大名が独自に整備した道を繋ぎ合わせて中山道が整備されました。

 

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ガンバレ徳川

 

 

薩摩義士と河川改修

荒れる黄河

 

美濃に豊かな恵みをもたらした木曽三川ですが、ひとたび洪水を起こすと甚大な被害を出していました。そのため、江戸時代初期には木曽川の西岸を囲む御囲堤が完成。尾張藩領は洪水の被害から免れる事が出来ます。

 

しかし、水の勢いを美濃国に逸らす為に、幕府は美濃国には高い堤防を許可せず、遊水地として利用する差別的な待遇を取ります。そのため、木曽三川下流域の村々は輪中(わちゅう)と呼ばれる村ごとに囲い込んだ堤防で自衛する事になりました。

 

この場合、隣の村の輪中が洪水で崩れると自分の輪中は水圧が減るので、自分たちの利益になれば、よそはどうでもよいとする排他的な「輪中根性」を産んだとされます。

 

しかし、放置され続けた木曾三川は1741年より、11年間にわたり洪水が頻発し美濃に惨状をもたらします。

 

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俺達尊攘派

 

 

平田靱負と946人の薩摩藩士

江戸城

 

宝暦3年(1753年)幕府老中、西尾忠尚(にしおただなお)は薩摩藩に命じて濃尾地方の木曽川、長良川、揖斐川の治水工事にあたらせました。

 

木曾三川には、複数の川が入り組んだ部分があり大変な難工事でしたが、幕府の厳命を受けた薩摩藩は断り切れず、総奉行平田靱負(ひらたゆきえ)以下947名を美濃に派遣し、四十万両(300億円)の借金をして、2年間の歳月を費やして難工事に立ち向かいます。

 

こうして、美濃の人々の為に刀を鍬に持ち替えて毎日、土木工事に従事する薩摩藩士に対し、幕府は頭がどうかしているとしか思えないドs対応を仕掛けてきます。

 

947名の薩摩藩士に宿を提供する地元の村に対し品物は決して安く売ってはいけない。食事は一汁、一菜(いちじゅう・いっさい)で魚も酒も無し、藩士が怪我をしても必要最低限の手当しか許さないと厳命したのです。

 

それだけならまだしも、一度完成した工事まで幕府の命令を受けた何者かが破壊してしまうなど幕府の激しいイジメは続き、過労で命を落としたり、空しさから病気になって死んだり、幕府の仕打ちに憤り抗議の切腹を遂げるなど死者が相次ぎ、割腹52人、病死33人と全体の11人に1人が死ぬ悲惨な工事となります。

 

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

特に抗議の切腹について、幕府は一切の抗議を認めずに反逆と見なすと申し付けました。また、切腹はお家断絶に繋がるので、平田靱負は切腹者も病死として届けるなど苦渋の決断をし現場監督を続けました。

 

平田靱負という人は立派な人物で、幕府の無理難題に対して薩摩藩77万石で幕府800万石に戦いを挑もうといきり立つ藩士に

 

「幕府と戦えば、我々武士は気が済むかも知れんが、薩摩は戦場となり罪のない女、子供、民百姓までが死ぬ事になる。それより工事を引き受けて洪水で難儀をする美濃の民百姓の命を救う方が仁義の道にも適い、ひいては薩摩藩が陰徳を積んで繁栄する元になるのだ」

 

このように説き伏せたと言われています。

 

平田靱負は工事の完成後、それまでの全ての責任を取る形で切腹し、難工事の最後の犠牲者になりました。薩摩義士たちが命を削って築いた千本松原の堤防は、昭和34年東海地方を襲った伊勢湾台風で各所で堤防が決壊した中でも無傷でした。

 

これらの事から岐阜県では宝暦治水、薩摩義士に対する顕彰の機運が高まり、鹿児島県から中学生を招待するなど近年でも交流が続いています。

 

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島津斉彬

 

 

大垣藩の幕末と廃藩置県

名古屋城

 

先に述べた通り、美濃国は徳川幕府により幕府直轄地と諸藩によるモザイク統治になります。その中で最も大きいのが10万石の大垣藩で、寛永12年(1635年)摂津尼崎藩より戸田氏鉄(とだうじかね)が入り、以後明治維新まで戸田家の支配が確立しました。

 

9代藩主の戸田氏正(とだうじまさは改名的な藩主で城代の小原鉄心(おはらてっしん)とともに藩政及び軍制改革に従事します。

 

10代の戸田氏彬(とだうじあきら)は幕府に忠実な人物で禁門の変では長州藩家老、福原越後ふくはらえちご)が率いる軍勢を伏見街道で破り、天狗党の武田耕雲斎(たけだこううんさい)の軍勢が中山道を上洛しようとした際には、これを妨害しました。

 

幕末 大砲発射

 

第二次長州征伐でも幕府側について、将軍徳川家茂の警護役を務めますが、途中で病に倒れ慶応元年(1865年)35歳で死去します。大垣藩は氏彬の弟、氏共が継ぎますが、氏彬の路線を受け継ぎ鳥羽伏見では徳川慶喜に与して朝敵になりました。

 

しかし、ここで薩長とのパイプが太い家老の小原鉄心が上洛して謝罪恭順の意向を伝え、隠居していた戸田氏正を後ろ盾に藩論を勤皇恭順にまとめあげた功績で大垣藩は一転して朝敵から外れ、官軍の東山道鎮撫使の先鋒役を務めることになります。

 

この華麗なる寝技には「卑怯」という声もありますが、ともあれ大垣藩は幕末の風雲を乗り越え、戸田家は明治維新後に伯爵家となりました。

 

岐阜県領域は、明治4年笠松県と廃藩置県でできた今尾県、岩村県、大垣県、加納県、郡上県、高富県、苗木県および野村県が合併して岐阜県が誕生します。この頃まで、岐阜県は旧美濃国のみの領域でしたが、明治9年筑摩県から吉城郡、大野郡、益田郡の三郡を合併しほぼ現在の形になりました。

 

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幕末のエンジニア達

 

 

岐阜県民の特徴

はじ三倶楽部 詳しい人ばかりの集まりに萎縮してしまう人

 

岐阜県は織田信長が天下を目指した土地でグローバルな視点を持つ開放的な考えの県民性に思われがちです。

 

しかし、実際は江戸時代に複数の藩と幕府天領に分けられ、また木曾三川の洪水に対して村単位の堤防で行動してきた経緯から身内には極めて親切だが「他人にはまったく興味がない」超閉鎖的県民性と真逆になっているようです。

 

岐阜県が全国トップの貯蓄率であるのも、身内の為に財産を残す県民性の現れと考えられています。このような閉鎖性の為に他府県人が打ち解けるまで苦労しますし、なかなか本心を見せないので付き合いにくく感じるようです。

 

 

また、根に持つタイプも多いので付き合いにくいからと悪口や見下した発言は絶対にいけません。本人に漏れると「五億年許さん!」という事になり、関係修復が絶望的です。

 

一方で権威に弱いという保守的な面もあるので、こちらの立場が上の分にはよく指示を聞いてくれますが、逆にこちらの立場が弱いと厳しい対応を強いられ苦労する事になります。

 

 

岐阜県民との付き合い方としては、こちらが下手に出て辛抱強く接し、おだても悪口もやらない事、ビジネスライクに徹するのがお互いにちょうど良い関係性になります。

 

岐阜県民の美点としては保守的な性格で、真面目に丁寧に働き、約束を守る事が挙げられるので、相手に深入りしない分には欠点が目につく事はないでしょう。

 

また、県内でも飛騨地方については、歴史的にあまり関係がなく南部の人に白川郷の話をしても「俺、飛騨じゃないから」と困惑するだけなので話題には注意しましょう。

 

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いだてん

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は岐阜県の歴史を解説しました。

 

濃尾平野と木曾三川の自然の恵みを受け古くから栄えてきた岐阜県。平安時代から美濃源氏が勢力を築き、鎌倉時代には土岐氏が桔梗一揆を組織して強い軍事力を持ち執権北条氏にも重んじられていきました。

 

南北朝期には、土岐氏が後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府を滅ぼし、室町幕府成立後は南北朝の騒乱で手柄を立てて美濃、伊勢、尾張を領有する大守護大名になります。

 

鎧兜姿の斎藤道三

 

戦国期には守護代、斎藤氏の台頭で土岐氏は衰退し、美濃のマムシ斎藤道三の活躍の舞台となり、その後は道三の娘婿、織田信長が稲葉山に岐阜城を築いて天下への夢を掲げます。

 

信長の死後は、その後継者の間で支配者が二転三転し、江戸時代になると隣が御三家の尾張である事から、複数の藩が置かれて分割統治され治水工事も許されず、木曾三川の氾濫による水害に苦しみました。

 

明治維新後は、それまで別国だった飛騨が岐阜県に編入され、現在に至っています。

 

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岐阜県の歴史が2分間でそこそこ分かります!

 

はじめての明治時代

 

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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