甲斐の虎武田信玄。元亀4年(1573年)上洛途中に病死した信玄ですが、もし、もう少し存命していれば、上洛は果たせなくても長篠の敗戦は無かったと考えられているそうです。それは一体どういう事なのか?今回は武器が語る日本史を参考に考察してみます。
この記事の目次
信玄存命なら長篠の敗戦は無かった?ザックリ
では、最初に今回の記事の内容をザックリ説明します。
1 | 甲陽軍鑑では、武田信玄は戦場の情報収集を重視したと記録される |
2 | 甲陽軍鑑によれば長篠の戦場に木柵がある事を武田の将兵は知らなかった |
3 | 武田の旧臣は木柵をネバマと呼んでインチキだと非難している |
4 | 武田の騎馬は長篠の木柵に突撃せず将兵は徒歩で立ち向かった |
5 | 当時は一番槍が戦果の主流。しかし木柵がある為に 敵を討っても首が取れず、武田将兵の士気は急速に低下した。 |
6 | 木柵は徳川家康の一か八かのギャンブルだった。 |
ここからは、より詳しく記事について解説しましょう。
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甲陽軍鑑が示す信玄の強さ
武田家の歴史を語る上での史料に甲陽軍鑑があります。内容としては武田勝頼時代になって冷遇された信玄の旧家臣団の戦場での自慢話ですが、この中には信玄の強さの由縁と、どうして武田軍が長篠で敗れたのか?その敗因が書かれているというのです。
では、甲陽軍鑑より信玄の強さについて言及した部分を抜き書きします。
総じて、信玄公は合戦の前には戦場となる土地の絵図を前に各侍大将の担当区域や地形が険しいエリアを部将たちと確認していた。小荷駄隊に到るまで、その確認は周知徹底したものだった。
また、信玄公は退却ルートを必ず確保してから合戦に臨んだ。例えば、遠征先の戦場で敵城を包囲して敵の援軍が出現したので、やむなく包囲を解いて退却するなど無駄な事が起きないように根回しと地ならしをしたものだ。
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信玄の強さは基本を守る事だった
甲陽軍鑑の記述を読むと、信玄が合戦の基本を守る人だった事が分かります。
戦場の地形を部下と入念に確認し、退却の時を考えて逃げるルートを確保しておく。こんなのは当たり前に感じますが、当時、これを徹底して守る総大将というのは、そこまで多くなかったのでしょう。
昔も今も基本的な事は軽んじられて守られなくなり、悲惨な失敗に繋がるというのは、何度となく私達も目にしている事です。
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基本を怠った武田勝頼
さて、甲陽軍鑑によれば、長篠の敗戦は、そんな基本事項が守られなかった為に起きたとされています。その部分の説明を読んでみましょう。
過ぎた長篠の合戦では敵が柵を設置している事をこちらは知らなかった。敵は碁におけるネバマ(石隠し)をして勝ったのだ。我々は頑丈な三重の柵がある事を見落としていた。あの柵さえなければ勝利していた。
このように信玄時代と違い、武田軍は長篠の戦場をろくろく調べていなかった事が甲陽軍鑑の記述から浮かび上がります。
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碁のルールについて
ここで碁のルールについて少し解説しますと、碁では相手の碁石の四方を囲むと、その石を取る事が出来ます。これを「アゲハマ」と言い碁笥(碁石入れ)の蓋上に置いておきます。取った石は碁が終了すると敵の陣地に置き目の数を減らす事に使用できます。
碁は石で囲ったエリアの目を競い、より多く目を獲得した人が勝つ陣取りゲームですが、アゲハマの石はちゃんと相手に見えるように置いておく必要があります。ネバマはそれを相手に隠して見せないようにする方法でルール違反なのです。
つまり、甲陽軍鑑の中で武田の旧臣たちは、徳川と織田はズルして勝った。あんなのはインチキだと自己弁護している事になりますね。
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鉄砲以上の脅威だった木柵
長篠合戦というと、鉄砲の威力が取り沙汰されがちですが、実際には木柵も脅威でした。徳川家康は木柵の存在を極秘にし長篠の窪地に設置して、上手く周囲の風景に埋没するように設置していたというのです。
それでも、相手が信玄であれば慎重に戦場を確認して木柵の存在を見抜き戦術を変えてきたでしょうが、勝頼時代の武田家はそれを怠ったと甲陽軍鑑の記述からは読み解く事が出来ます。
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武田騎馬軍団は木柵に突撃していない
武田騎馬軍団のイメージから、長篠合戦では騎馬隊が次々と木柵に突撃して鉄砲の一斉射撃に敗れたとされてきましたが、これは誤りであるようです。
武田においての馬は機動力を活かす手段であり、戦場に到着すると下馬して馬を従者に預け武者は徒歩で槍を片手に戦うのが主流になっていました。騎乗して合戦に参加する部将もいましたが、それは号令をかけて指揮する役割であり、そのまま木柵に突撃するわけではありませんでした。
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敵兵の首が取れず士気を喪失する武田軍
武田家では騎乗して槍を奮う事は奨励されず、騎乗して戦う事は士気の鼓舞に繋がらないとされ、武士は徒歩で槍を片手に一番槍を狙うものとされました。
つまり、徳川・織田連合軍の木柵に取りすがったのは足軽や徒歩の武者が多かったわけですが、武田の将兵が勇気を奮い木柵に取りついて敵を殺しても、柵に邪魔されて首を取る事が出来なかったのです。
当時は鉄砲足軽ですら狙撃して殺した敵の首を取る為に小者を従えていて、狙撃に成功した途端、小者が猟犬のように走り出し敵の首級を取って戻って来たそうでドリフターズの島津豊久ばりに首が重視されていました。そのため、首が取れないというのは、士気に深刻な影響を及ぼしたのです。
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木柵が武田軍の士気を奪う
おまけに木柵は長い柵がひとつあるというわけではなく、隙間を空けて短い柵が互い違いに配置され、敵兵が一直線に進む事が出来ないように工夫されていました。これで勢いを削がれた武田の将兵は木柵の隙間から突破しようとし、逆に前後左右の木柵から挟撃されて立往生する事になります。
かくして木柵に悪戦苦闘している間に、柵の向こうで新たな鉄砲隊が配備され一斉射撃が始まり、やっと木柵に取りすがった武田の将兵が薙ぎ払われます。この繰り返しでは、いかに一番槍を目指しても不毛なので、武田軍の士気は低下し、やがて潰走するという運びになったのです。
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長篠合戦は一か八かのギャンブル
興味深いのは、長篠合戦以後、木柵を多用した戦いは起きていないという事です。これは徳川家康が、木柵作戦を一か八かのギャンブルと考えていた事の表れで成功したから良いようなものの、こんな策は二度と通用するものではないと考えて、木柵を封印したのかも知れません。
最初に武田勝頼が長篠の戦場を入念に調べていて、木柵の存在に気がついていたら、長篠合戦は、ワンサイドゲームになる事はなかったでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
私達は名将というと、頭脳明晰で天才的な閃きを持つ人物と思いがちです。
もちろん、そういう人もいたのでしょうが長期間勝ち続けるのには、それだけでは不足で、むしろ合戦の基本中の基本を慢心せずに入念に実践する人こそが最後まで勝ち続ける名将と呼ばれたのではないでしょうか?
最後に私が好きな武田信玄の格言を紹介します。
”あと、一押しこそ慎重なれ”
参考文献:武器が語る日本史 徳間書店
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