信玄の後継者となった武田勝頼ですが、長篠の戦いに敗北した後は急激に力を失っていきました。そんな武田没落の象徴となった長篠の戦い。現在に至っても武田軍が敗れた理由がハッキリしていない戦いでもあります。今回は長篠の戦いで武田が敗北した理由について主な説を紹介しましょう。
この記事の目次
武田騎馬軍団が三千丁の鉄砲の三段撃ちに敗北した
最も派手であり、映画映えしそうなのが武田騎馬軍団が織田と徳川の三千丁の鉄砲と長い木柵に敗北したという説です。しかし、三千丁の鉄砲による三段撃ちは史実で確認できる史料がなく、また火縄銃の射程は最大でも150m程度しかありません。
長篠の戦いの一つである設楽原の戦いは数時間も続いたので、もし武田が騎馬隊で突撃したとしても、退却して火縄銃の射程の外に出れば済む話であり、いつまでも騎馬隊が射程内に居続けた理由が分からず、最近では主張されなくなっています。
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火縄銃の轟音で武田の騎馬が混乱
長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍の鉄砲は千丁程度しかなかったが、その千丁の鉄砲の轟音で武田の騎馬が驚き、大混乱を起こして潰滅したという説です。しかし、最近では武田軍も織田・徳川連合軍に数では劣らない鉄砲があったとされていて、武田軍が鉄砲の轟音に対し、馬に何も備えをしていなかったのはオカシイとする疑問が出ています。
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鉄砲隊に対し足軽と騎兵で無謀な突撃をした
武田勝頼が馬防柵と鉄砲による織田・徳川連合軍の陣地の堅牢さを甘く見て、無意味に足軽と騎馬を突撃させたのが敗因とする説もあります。しかし、木柵に対して足軽と騎馬隊で突撃するのは、当時としては標準的戦術であり愚策ではありませんでした。
勝頼を非難する箇所が多い甲陽軍鑑も鉄砲隊に足軽と騎馬を突撃させる戦術に文句はつけておらず、ただ敵より少ない数で突撃した事を非難しているのみです。また、当時の火縄銃の射撃速度では、元込め式鉄砲のように襲い掛かる騎兵を次々に打ち倒す力はなく、戦国時代でも、鉄砲隊に対し騎兵と足軽が突撃を繰り返し打ち破った戸次川の戦いのような例が存在します。
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武田軍の中央が早々に退却して大敗した
武田軍の敗因には陣形が崩れた事も挙げられます。数において劣る武田軍は翼包囲と呼ばれる陣形を取りました。翼包囲とは自軍の部隊から左右に展開した一部の部隊を対峙する敵軍の側面から回り込ませ中央軍と連動して複数個所から敵を攻撃する戦術です。しかし、この戦術は両翼の部隊が迂回突破する前に、中央の部隊が崩壊したり退却した場合、両翼の部隊が分断されて孤立し大損害を被る弱点があります。
武田軍は、左翼に山県昌景、内藤昌豊、右翼に馬場信房・真田信綱、真田昌幸、土屋昌続勇猛な部将を配置していましたが、包囲が終わる前に、中央軍の武田信廉や穴山信君が勝頼の命令を無視して退却。両翼の部隊が織田・徳川軍の只中に取り残されました。織田信長は当然、翼包囲を予期して、布陣の左右の鉄砲を増やしており、武田軍の右翼と左翼は孤立して連携できない状態で鉄砲の的となり夥しい損害を出して壊滅したのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は長篠の戦いにおける武田勝頼の敗因について紹介しました。色々ありますが編集長としては武田の翼包囲が中央軍の離脱により失敗し、両翼が孤立した状態で鉄砲の集中砲火を浴びて潰滅したのが一番大きな敗因ではないかと思います。
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