本多忠真の死因と生涯、本多忠勝の父替わりとなり三方ヶ原に散った三河の猛将

17/03/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

本多忠真

 

本多忠真(ほんだたざざね)は戦国時代の三河国の武将で徳川家康の家臣であり、徳川四天王本多忠勝の叔父にあたる人物です。兄である本多忠高(ほんだただたか)が1549年、1歳になったばかりの忠勝を残して討ち死にすると、本拠地の欠城(かけじょう)に兄嫁と幼い忠勝を引き取り養育しました。今回は忠勝の父親代わりとなった本多忠真を解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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松平氏の忠臣本多家

三河国

 

本多忠真は1531年から1534年の間に三河松平氏の家臣、本多忠豊の次男として誕生します。本多家は忠真の祖父本多助豊(ほんだすけとよ)の時代から安祥松平氏の松平長親まつだいらながちか)に仕え、以後、信忠(のぶただ)清康(きよやす)と代々仕えています。忠真の父、忠豊も松平氏に仕え享禄3年(1530年)の宇理城(うりじょう)熊谷直盛(くまがいなおもり)を攻めた際には、松平清康を敵兵から庇い、自ら進み出て戦い清康から扇の指物を与えられています。

 

忠豊は清康が不遇の死を遂げ安祥松平氏が没落しても他家に仕える事なく、松平広忠が今川義元の庇護を受けて岡崎城に帰還するとこれを迎えました。

 

徳川家康の馬印と徳川家康

 

忠豊も父譲りの忠義の持ち主で天文14年(1545年)第二次安祥合戦(あんじょうがっせん)で敗北した松平広忠を逃がすために殿軍を務めて討死しています。

 

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本多忠真の逸話、甥の忠勝を厳しく育てる

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10代の頃に父を失った忠真は、その後欠城主となりますが、本多家にはさらなる悲劇が待っていました。天文18年(1549年)第四次安祥合戦で兄・忠高が織田勢との戦いで討ち死にしてしまったのです。本多の本家を絶やすまいと、忠真は兄に代わり兄嫁とその子、鍋之助(なべのすけ)(後の本多忠勝)を欠城に保護。亡き兄に代わり忠勝を立派な武士とすべく徹底した教育を施します。父を知らない忠勝ですが、叔父の手により本多家の武士としての教育を叩きこまれたのです。

 

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桶狭間で忠勝を救う

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甥の忠勝は永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの前哨である鷲津砦(わしづとりで)での攻防戦で初陣を迎えます。この時、忠真が忠勝を補佐し、忠勝が織田方の武将・山崎多十郎に討ち獲られそうになったときに、槍を投げつけて窮地を救いました。その後も若年の忠勝をサポートして数々の合戦に従軍。永禄4年(1561年)の尾張国石瀬での水野信元との合戦で手柄を立て、永禄6年(1563年)の三河一向一揆の時にも一貫して家康を支持し岡崎城の防御に向かっています。

 

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本多忠真の晩年

徳川家康と共に武功を重ねる本多忠勝

 

本多忠真は40歳で討死しているので晩年はありません。しかし甥の本多忠勝が名将として成長していく様子を見る事が出来て、亡き兄に恥ずかしくない教育が出来たと満足したのではないでしょうか?

 

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本多忠真 最期

武田信玄に挑む若き徳川家康

 

 

元亀3年(1572年)12月、本多忠真は三方ヶ原の戦いで退却の際に自ら殿を買って出ます。そして旗指物を左右に突き刺すと、「ここから後へは一歩も退かぬ」と言って追撃に来る武田軍に突撃し壮烈な戦死を遂げました。この戦いでは忠真ばかりではなく、鳥居忠広や、成瀬藤蔵(なるせとうぞう)田中義綱(たなかよしたけ)中根正照(なかねまさてる)青木貞治(あおきさだはる)のような名だたる武将や、家康の身代わりとなった夏目吉信(なつめよしのぶ)鈴木久三郎(すずききゅうざぶろう)が討ち死にする大損害を受けています。

 

本多忠勝の単騎駆け

 

一方で甥の忠勝は、忠真とは別に徳川軍の左翼を指揮し、山県昌景を撃退して武田軍が逃げる家康本隊を追撃する足並みを乱れさせるなど活躍しました。

 

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本多忠真の子孫は?

名古屋城

 

忠真には嫡男の菊丸がいて、父の命令で家康を援護し無事に浜松城に退却しますが、忠真を後に父を三河に葬ったあとに出家したようです。以後の子孫は伝わっていません。

 

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本多忠真の死因

討死する本多忠真

 

本多忠真の死因は討ち死にです。忠真は三方ヶ原で大敗した家康が浜松城に逃げるまでの時を稼ぐためにしんがりを引き受け、後ろに下がらないと宣言して武田勢に切り込んでいき、多勢に無勢で次々と刀傷を受けて討ち死にしました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

今回は徳川四天王、本多忠勝の叔父であり、父親代わりでもあった本多忠真を解説しました。忠真自身も槍の名手であり数々の手柄を立てましたが、祖父や父、兄と同じく家康を救うために盾となり討ち死にした話は胸熱ですね。こんな立派な叔父に教育されたからこそ、忠勝も徳川随一の名将になったのでしょうね。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
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