大河ドラマ「どうする家康」秀吉の死から一年後、前田利家も老衰で死去しました。それから半年後に起きたのが徳川家康暗殺計画で、首謀者は前田利長、浅野長政、大野治長、土方雄久の4名でした。家康は自身の暗殺事件を寛大に処置した事で名声を博す事になりますが、果たしてこの暗殺事件は本当にあった事なのでしょうか?
この記事の目次
家康暗殺計画は一次史料には登場しない
徳川家康暗殺計画は同時代の史料には出てきません。暗殺計画について詳細に描かれるのは、江戸時代の正徳3年(1713年)に完成した「関ケ原軍記大成」です。これは17世紀の前半に誕生した宮川忍斎という人物が中心となって、関ケ原の戦い頃の史料を集めて編纂したものであり、聞き書きした事実を丁寧に残そうとはしていますが、家康暗殺計画に触れた史料は、こちらが初出でそれ以前にはないので、信憑性に難があると考えられているそうです。
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関ケ原軍記大成が伝える家康暗殺計画
では、関ケ原軍記大成が伝える家康暗殺計画はどんなものだったのでしょうか?少しだけ時系列を遡って見てみましょう。1599年3月3日に利家が病死すると、福島正則や加藤清正ら7将が大坂屋敷の石田三成を殺そうとして襲撃する事件が発生します。この時三成は、佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内治部少丸にある自身の屋敷に逃れました。この伏見城は家康の居城だったので家康が北政所等と仲裁に入り、三成は五奉行職を退いて佐和山城に蟄居することになります。三成が勢力を失った後、9月に家康は増田長盛と長束正家の要請で、大坂城に入り政務を執り始めます。しかし、この事を苦々しく見ている人間がいました。それが、前田利長、浅野長政、大野治長、土方雄久の4名だったのです。
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4名が家康の命を狙う理由
まず、計画の首謀者と言われている浅野長政ですが、彼の子の幸長は利家の娘を娶っていて、前田利長とも昵懇でした。次に大野治長は豊臣家の重臣であり淀殿とは乳兄弟です。土方雄久は元々は織田信雄に仕えていましたが、信雄が秀吉に改易された後に豊臣家に仕えていました。このように4人は前田利家、あるいは秀吉に忠誠がある人であり、大坂で天下人のように振る舞い始めた家康が気に入らず、隙を見て殺してしまおうと考えたと、関ケ原軍記大成は伝えています。
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あまりにもお粗末な計画
しかし、日本の政治の第一人者を暗殺しようと考えている割には、4人の暗殺計画は杜撰でお粗末なものでした。具体的には1599年9月12日、家康が大阪城に参内し、千畳敷の廊下に来た所で土方雄久が家康に切りかかり、大野治長がトドメを刺すというものだったようです。ところがこの計画は事前に長束正家と増田長盛にバレていて、2人の密告により家康も知っていたので、警備は厳重で2人には家康を殺すチャンスはありませんでした。
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処分を寛大にする家康
自分の命を狙われた家康ですが、腹心の本多正信が前田利家が死んで1年も経過しない間に厳しい処分を科しては政治が不安定になるという意見を入れ、浅野長政には隠居を命じた上で徳川領の武蔵府中に蟄居とし、大野治長は下総の結城秀康の下に追放、土方雄久は、常陸国の佐竹義宣の下へ追放としました。最後に残った前田利長については、加賀征伐を計画しますが、驚いた利長が生母である芳春院を人質に差し出し謝罪恭順した事で許しています。
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処分後、家康に忠実に尽くす4人
本来なら切腹の上に家を取り潰されても不思議はないのに、追放という軽い処分で済まされた4人は、さらに翌年、唐突に赦免されました。その後の4人は全く態度を入れ替え、関ケ原でも全員が家康の東軍についています。大野治長は関ケ原以後も豊臣の重臣の立場で、最終的には大阪の陣で淀殿や秀頼と運命を共にしますが、他の3人は、家康につき天寿を全うする事になるのです。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
家康暗殺計画が本当にあったかどうかは不明ですが、4人が寛大な処分を受け、大野治長以外は、家康に忠実に尽くすようになったのは事実のようです。ここには家康のアメとムチの政策が感じられ、チャンスをとらえては、豊臣恩顧の武将たちに揺さぶりを掛けていた様子が窺えます。ここで家康に屈服すれば部下として丁重に扱い、反発するようなら徹底して叩き潰そうと家康は考えていたのかも知れません。
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