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真田昌幸とは何者?徳川家康に一泡吹かせずーっと恨まれた国衆

30/06/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

真田昌幸

 

徳川家康を恐れさせた男の煽り文句では、名だたる戦国武将が並びますが、その中でも真田昌幸と信繁父子はリアルガチで家康を恐れさせた存在でした。特に家康は昌幸を恐れていましたが、昌幸こそは信玄から直接の軍略の指導を受けた、武田勝頼にも劣らない名戦略家だったのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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真田幸隆の三男として誕生

信濃国

 

真田昌幸は信濃の国衆、真田幸隆(さなだゆきたか)の三男です。父の幸隆は7歳になった昌幸を武田家への人質として甲府に送り、昌幸は奥近習衆(おく・きんじゅうしゅう)に加わりました。その後、昌幸は永禄年間に信玄の母系である大井夫人の支族である武藤氏の養子になり武藤喜兵衛(むとうきへい)と名乗ります。昌幸は足軽大将として騎馬15、足軽30人を率いていたそうです。

 

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真田昌幸の初陣

武田騎馬軍団 馬場信春

昌幸の初陣は甲陽軍鑑によれば永禄4年の第四次川中島の戦いで足軽大将としての出陣で、武田家奉行人(たけだけぶぎょうにん)にも加わったとされますが甲陽軍鑑の記述以外に、それを裏付ける史料はありません。永禄12年(1569年)の三増峠(みますとうげ)の戦いでは、昌幸は先陣の馬場信房への使い番を勤めています。この使い番は伝令や軍の観察、敵への使者などを務めるポストで有能な人材が選ばれていました。昌幸はそれだけ優秀であった事が窺えます。

 

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信玄の両目と謳われた昌幸

singen-takeda(武田信玄)

 

武田信玄は、真田の三男坊昌幸の非凡な才能を見抜いていました。元亀元年、武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍の指揮を執り箱根を越えて三島に着陣します。信玄は決戦を主張しますが、馬場信房は敵の大将が出てきているので用心すべきではと慎重論を唱えました。

 

軍議

 

しかし、信玄は、すでにわしの両目の如き者たちを使者に派遣しておると答えます。御屋形様が両目と言い切る使者とは誰の事かと武将たちが顔を見合わせていると、そこに曽根昌世と真田昌幸が帰還して報告しました。このように昌幸は若くして信玄の高い信頼を得ていたのです。

 

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兄が討ち死にし真田の家督を継ぐ昌幸

鉄砲の射撃

 

信玄が病死すると昌幸は武田勝頼に仕えます。

 

天正2年(1574年)に父の幸隆が死去、この時、真田の家督は長兄の真田信綱が継いでいました。しかし、天正3年の長篠の戦いで、信綱と次兄の昌輝は討ち死にし、昌幸は武藤家を抜けて真田の家督を継承します。昌幸も長篠の戦いには参加していましたが勝頼の旗本衆として後方にいたために戦死を免れていました。

 

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武田勝頼の配下として北条氏と激闘

 

天正6年(1578年)越後の上杉謙信死後の御館(おたて)の乱を経て、武田勝頼と上杉景勝の間に甲越同盟が締結。昌幸は勝頼の命令を受けて北条氏政の所領だった東上野の沼田領へ侵攻、調略を駆使して沼田衆を切り崩し名胡桃城と小川城を奪い取りました。この両城を拠点に昌幸は沼田城を陥落させます。

 

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本当に武田勝頼を救おうとした?

武田勝頼

 

天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始されます。このとき昌幸は勝頼に甲斐を捨て上野吾妻(こうずけあがつま)地方に逃亡するよう進言。岩櫃城へ迎える準備をしていましたが、勝頼はその進言をいれず身内である郡内領主(ぐんないりょうしゅ)小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城である岩殿山城(いわどのやまじょう)を目指して落ち、信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われています。

 

しかし、これは江戸時代の史料であり一方で武田滅亡以前から昌幸が北条や徳川、上杉との接触したと示す史料もあり、昌幸の老獪(ろうかい)さが行動からも読み取れます。武田氏滅亡後、昌幸は織田信長より、旧領地の一部を安堵をされ滝川一益の与力となります。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出して織田への忠誠を誓いました。

 

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本能寺の変で取り放題に

mituhide-aketi-honouji(明智光秀の本能寺の変)

 

織田に服従してから僅かに3ケ月で本能寺の変が勃発し信長が明智光秀に討たれます。まだ、安定には程遠い旧武田領では、反乱が相次ぎ織田家の武将は次々に美濃に逃亡、逃げ遅れた河尻秀隆(かわじりひでたか)は殺害されました。

 

昌幸は、これを千載一遇の好機と見なし、信濃小県郡(ちいさがた)や佐久郡における旧武田家臣に根回しを開始、彼らの一部は昌幸を盟主と仰ぎます。さらに昌幸は北条氏直が滝川一益を破ると、親戚の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回します。ここから昌幸は上杉景勝、北条氏直と1ヶ月ごとに主を変え、最終的には沼田城に戻って徳川家康に降伏しました。

 

徳川四天王のひとりで家康に一番近かった男・酒井忠次

 

これを契機に北条氏直は徳川家康と和睦しますが、家康は氏直の機嫌を取ろうと上野国の沼田領を譲渡すると昌幸に何の相談もなく決定します。昌幸は頭越しの決定に怒り、徳川に不信感を持ちました。

 

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家康不在の間に領地を拡大

どうする家康 正面ver

 

天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが起こると家康は主力の軍を率いて尾張へ向かい、昌幸は上杉景勝牽制のために信濃に残留します。しかし、昌幸は家康の注意がそれたのをチャンスと見て周辺で策謀を巡らし、沼田、吾妻、小県を真田領として掌握します。家康は秀吉と和議を結んで尾張から撤兵しますが、北条氏直から和議の条件である沼田領引き渡しの履行を迫られます。家康は軍勢を率いて昌幸に沼田領を北条氏に引き渡すように求めますが、昌幸は相応の替地(かえち)を寄こさないと嫌だと拒否しました。

 

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第一次上田合戦で徳川・北条軍を撃破

真田昌幸と徳川家康

 

昌幸は、家康が攻めてくると直感し、次男の真田信繁を上杉景勝の人質とします。徳川・北条連合軍は、鳥居元忠、大久保忠世(おおくぼただよ)平岩親吉(ひらいわちかよし)ら7000の兵力を上田へ藤田氏邦を沼田に侵攻させますが 昌幸は地の利を活かして徳川軍に1300もの死傷者を出させる大勝利を収めています。関東と東海の大名である徳川と北条を向こうに回して大勝利を飾った事で、昌幸は一国衆ではなく、戦国大名クラスとして豊臣政権に認識されます。

 

晩年奇行が多い豊臣秀吉

 

 

その後、昌幸は景勝の人質に出していた信繁を改めて秀吉の養子として差し出し、豊臣政権を構成する大名となりました。家康は尚も真田討伐を諦めず、小競り合いが続きますが、秀吉の調停を受けて停戦、昌幸は家康の与力となります。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

家康の与力になった昌幸ですが、その後も豊臣恩顧であり続け、関ケ原の戦いでは西軍に味方、家康の三男で後継者の徳川秀忠を上田城に足止めして遅参させるなどして徹底的に家康に祟る事になります。天下人家康に一度ならず何度も泡を吹かせたのは昌幸しかいません。それだけに大河ドラマでの活躍が楽しみですね。

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
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