信長、秀吉、家康といえば戦国の世を終わらせた三英傑です。しかし、この3名では家康が一番保守的な政治家に映るかと思います。
徳川幕府が保守的だと批判される理由
確かに家康が興した徳川幕府は制限貿易を敷き世界から入る情報を統制したので、それが明治維新後の近代化の遅れとしてネガティブに批判される事もあります。ですが、それは家康の性格ではなく領地の問題かも知れません。
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徳川家康の領地事情
徳川家康は元々、三河、駿河、遠江など東海から関東の大名でした。その後、小田原北条氏の領地に秀吉の命令で領地替えされるので領地は、より関東に寄っていきます。
一方の秀吉は、東海から近畿、四国、中国が勢力基盤でした。当時、東国は西国に比較して開発が遅れていて、特に商業においては大都市が幾つもある西国が進んでいる状況です。
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商業を重視した豊臣秀吉
秀吉が商業を重視したのは、立地条件からも当然の選択です。しかし、家康はそうではありませんでした。石高こそ、秀吉を上回る250万石もありましたが、本拠地の江戸は、まだまだ湿地帯が多く時間をかけて開発が必要でした。
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徳川家康が保守的に感じる理由
家康が秀吉や信長より農業重視に見えるのは、保守的だからではなくまだまだ関東に開発の余地あり、商業は農地開発が一段落した後だと考えていたからではないでしょうか?
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