広告

井伊直政とはどんな人?遅れてきたルーキーはなんで徳川家康に仕えたの?【どうする家康】

14/02/2023


 

コメントできるようになりました 織田信長

井伊直政

 

井伊直政は徳川四天王の1人です。他の3名と違い、元々は遠江の豪族井伊氏の出身で家康に仕えたのもかなり遅い新参者でした。しかし、小さい体に似合わず抜群の勇気と武勇を持ち、外交交渉にも長けていたので、家康のみならず豊臣秀吉にまで目をかけられ、徳川家においては12万石の所領を受けて四天王で一番になっています。今回は井伊の赤鬼、井伊直政について解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 ほのぼの日本史レポート引用について



井伊直政の出身地

 

井伊直政は永禄4年(1561年)今川氏の家臣である井伊直親(いいなおちか)の嫡男として遠江井伊谷(とうとうみいいのや)近く祝田(ほむだ)で誕生します。幼名は虎松です。井伊家は先祖代々井伊谷の国人領主でしたが、直政の祖父井伊直盛(いいなおもり)が桶狭間の戦いで討ち死に、さらに2年後には父の直親も今川氏真に謀反の嫌疑を掛けられ誅殺されました。

 

こちらもCHECK

晩年は毛嚢炎を患い亡くなった榊原康政
榊原康政の死因は皮膚の感染症だった!おできを放置した事が命取りに【どうする家康】

続きを見る

 

どうする家康

 

 

井伊直政の出家

おんな城主 直虎

 

当時、虎松は僅か2歳で家督は継げないので、井伊直親の娘である次郎法師(じろうほうし)井伊直虎(いいなおとら)と名乗り家督を継ぎます。今川氏真は、さらに2歳の虎松の命も要求しますが、今川家臣の新野親矩(にいのちかのり)が虎松の助命を願い出て引き取り虎松は生母ひよと共に新野家で育ちます。

 

しかし、1564年には新野親矩までが討ち死に、さらに1568年には井伊家の家老、小野道好(おのみちよし)が今川からの命令として虎松を殺して井伊谷の軍勢を率いて甲斐の武田信玄と戦おうとしたので、直虎は虎松を出家させ三河国の鳳来寺に入れました。

 

井伊直政が徳川家康に仕える

井伊直政

 

天正2年(1574年)虎松が父直親の13回忌のために龍潭寺を尋ねます。この時、祐椿尼(ゆうちんに)、直虎、ひよ、龍潭寺住職の南渓瑞聞(なんけいずいぶん)が今後の井伊家の事を考え徳川家康に仕えさせる事を決意します。

 

まず、虎松の生母、ひよが徳川家臣の松下清景に嫁ぎ、虎松は松下清景(まつしたきよかげ)の養子となって還俗します。そして、1575年、虎松は家康に見出され、苗字を井伊に戻す事を認められ、虎松から井伊万千代と改名。元々の領地である井伊谷の領有も認められて、14歳で家康の小姓になりました。

 

こちらもCHECK

armor(鎧を身にまとう武士)
鵜殿長照とはどんな人?家康に命を救われるが今川への忠義を貫き討ち死にした三河国人【どうする家康】

続きを見る

 

47都道府県戦国時代

 

 

井伊直政の家臣

井伊直政

 

井伊直政の家臣として有名なのは木俣守勝(きまたもりかつ)です。守勝は井伊直政よりも早く徳川家康に仕え、その後明智光秀の家臣になったりしますが、徳川に復帰して伊賀越えで家康の道案内をして助けました。その後、家康は守勝に武田の旧臣をスカウトするように命じ、守勝は武田氏の旧臣と話し合ってスカウトに成功、その一団は井伊直政配下の甲州同心衆に編制され、武田信玄以来の赤い甲冑で井伊直政を助けました。木俣守勝は1590年以後、3000石を与えられて井伊家の家老となります。

 

 

 

井伊直政はどこの城主?

名古屋城

 

井伊直政は最初、生まれ故郷の遠江、井伊谷の城主でしたが、その後は戦功を認められ、家康が江戸に入ると上野国箕輪城(こうづけのくに・みのわじょう)12万石を与えられました。これはケチで有名な家康が当時与えた家臣への石高として最高ランクです。

 

6時間で決着がついた関ヶ原の戦い 石田三成

 

その後、直政には関ケ原の戦いの褒美として石田三成の領地であった近江国佐和山城18万石を与えられます。井伊直政は1602年、彦根城の築城中に42歳で病死しますが、彦根城が築城されると佐和山藩18万石は廃止され、新しく彦根藩30万石が与えられ井伊家は明治維新まで彦根藩主として存続します。

 

こちらもCHECK

病死で亡くなった服部半蔵
服部半蔵の死因は?どんな晩年を送っていたの?【どうする家康】

続きを見る

 

三国同盟を潰したあの男

 

 

井伊直政、徳川四天王

イケメンすぎる本多忠勝

 

井伊直政は徳川四天王の1人です。残りの3人は酒井忠次、本多忠勝、榊原康政です。また、井伊直政は徳川二十八神将にも名前を連ねています。

 

井伊直政はどんな合戦に出た?

井伊直政

 

井伊直政は、高天神城の戦いなど甲斐武田氏との戦いで手柄を挙げました。本能寺の変後には、家康の伊賀越えに同道して家康を補佐し、天正壬午の乱では武田氏の領地を巡り後北条氏と交渉し家康が信濃国と甲斐国を併合すると、武田旧臣を多数与えられて旗本先手役の侍大将となり山県昌景の部隊を継承し軍装を朱色に統一します。

 

武田家の騎馬隊を率いていた老将・山県昌景

 

 

小牧長久手の戦いでは、小柄な体ながら部下よりも先に敵地に突入し、兜の巨大な角から「井伊の赤鬼」と呼ばれます。小田原征伐では数ある戦国武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内まで攻め込んだとされ奥州仕置でも軍の先鋒を勤めました。

 

薩摩藩の島津義弘

 

 

関ケ原では敗北して家康本陣の前を通り堂々と退却した島津義弘に激怒して追いかけ、味方を引き離してたった一騎で義弘の甥の島津豊久を討ち取り、いよいよ義弘の近くまで攻め寄せますが足を狙撃されて落馬し取り逃がします。その後、直政は傷が元で病死しました。

 

こちらもCHECK

猫が好きすぎて猫神社を作らせた島津義弘
猫神神社(仙巌園)とは?鬼島津義弘はにゃんこ好きだった!

続きを見る

 

ほのぼの日本史Youtubeチャンネル

 

 

 

井伊直政と井伊直虎の関係

井伊直政、直虎3

 

井伊直政から見て、井伊直虎は父の義理の妹なので叔母にあたります。井伊直虎は次郎法師と呼ばれていましたが、井伊家の当主が相次いで亡くなり、また家督をつぐべき井伊直政がまだ2歳だった事から直政の養母として家督を継いで女城主となり、直政が成長して家督を継ぐまで井伊谷を守り抜きました。

 

井伊直政はどんな人物?

衆道a 井伊直政、徳川家康

 

井伊直政は小柄で美少年だったそうですが、非常に短気で勇猛な武将でした。合戦ではいつも部隊の先頭を進み、部下は直政に遅れまいと毎回必死だったそうです。戦場では井伊の赤鬼と恐れられた直政ですが、自身も幼少期に苦労したためか敗者には優しく、真田信之の要請を受けて、真田昌幸・信繁父子の助命を求めたり、毛利輝元の領地の周防、長門を安堵したり、自分に手傷を負わせた島津氏との和睦交渉を引き受けたりしました。

 

こちらもCHECK

イケメンすぎる本多忠勝
本多忠勝とはどんな人?徳川四天王を様々な角度から徹底解説【どうする家康】

続きを見る

 

本能寺の変の特集

 

 

 

井伊直政、外様大名

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

敗者には優しい井伊直政ですが、元々松平の家臣ではない外様の出身なので、僅かな落ち度で足を引っ張られないように自分にも部下にも厳しい性格でした。短気な直政はささいな落ち度で部下を手打ちにする事が度々あり、元々寡黙でもあったので、家臣は気軽に口もきけず、直政がいると城内は恐怖で静まり返ったとか、そのあまりの厳しさに井伊家を出奔する家臣は後を絶ちませんでした。

 

 

井伊直政と赤色

singen-takeda(武田信玄)

 

井伊直政の鎧は赤色ですが、これは直政に徳川家康が武田勝頼の旧家臣を部下として与えたからだと言われています。武田軍は赤備えと呼ばれる赤一色の軍装で統一していて、井伊直政はこれを引き継いだのです。

 

こちらもCHECK

実はヒャッハーな武田信玄
衝撃!武田信玄は略奪でヒャッハーする為に選ばれた!

続きを見る

 

武田信玄

 

 

 

井伊直政と豊臣秀吉

豊臣秀吉からのオファーを拒否する佐久間盛政)

 

豊臣秀吉は井伊直政の武勇と政治手腕を高く評価、従五位下(じゅごいのげ)の官位を与え、豊臣姓を下賜し聚楽第行幸の際には、徳川古参の重臣達が諸大夫に留まる中で、直政のみが侍従に任官し昇殿を許され、徳川家中で最も高い格式の重臣になりました。

 

これを秀吉が直政を気に入っていた証拠と取る事も出来ますが、秀吉は将来強敵になりそうな大名の有力家臣を殊更厚遇して関係に亀裂を入れる(島津氏と伊集院氏等)布石を度々打っていて、井伊直政が徳川重臣の嫉妬に耐えられず、豊臣に逃げてくるのを狙った可能性もあります。

 

井伊直政は傷だらけ

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

井伊直政は体が小さく華奢でしたが、常に先陣を切って戦うので重武装にもかかわらず毎回のように傷だらけで戻ってきていたそうです。これは命を惜しまないという直政の覚悟の現れであり、敵は直政を井伊の赤鬼と呼んで恐れていました。

 

こちらもCHECK

名古屋城
石高って何?何の目安なの?【戦国そもそも論】

続きを見る

 

はじめての戦国時代

 

 

 

井伊直政と本多忠勝の関係

徳川家康と共に武功を重ねる本多忠勝

 

井伊直政と本多忠勝は同じ徳川四天王です。年齢は本多忠勝が13歳も上ですがどちらも猛将として有名でした。しかし、本多忠勝が軽装で少しも傷を負わずに勝つのに対し井伊直政は重武装ながら毎回、負傷して帰って来る違いがありました。なにかと比較される2人は、仲が悪かったと言われています。また本多忠勝が一方的に直政に対抗心を持っていたとする説もあります。

 

 

井伊直政 関ケ原の戦い

徳川家康vs石田三成(関ヶ原の戦い)

 

井伊直政は武勇だけでなく外交にも巧みで関ケ原の戦いでは、西軍についていた京極高次、加藤貞泰、稲葉貞通、竹中重門を東軍に寝返らせたと言われています。また直政は、関ケ原の戦いで家康の本陣を横切って薩摩に退却しようとした島津義弘軍を見逃さず、執拗に追撃し、鉄砲で足を撃たれて落馬するまで島津義弘を追い続けました。

 

こちらもCHECK

徳川家康vs石田三成(関ヶ原の戦い)
関ケ原は天下分け目の合戦ではなかった!【日本史新説】

続きを見る

 

上杉謙信特集

 

 

 

井伊直政の死因は?

japanese-matchlock(火縄銃)

 

井伊直政の死因は関ケ原の戦いで足を鉄砲で撃たれた事による感染症による死亡と考えられます。井伊直政は関ケ原の戦いから1年半ほどは生きていますが、当時は外科手術が発達していないので、足にめり込んだ鉄砲玉を取り出す事が出来ない事がありました。

 

そのため、鉄砲玉の鉛が体内で溶け出して毒素になり、周辺の組織を腐らせて壊疽(えそ)を起こし、酸素不足による血行障害が起き、やがて敗血症を発症して多臓器不全を起こし死んだと考えられます。

 

 

井伊直政の子孫

煙を吐く工場 モブ

 

井伊家の家督は長男の井伊直継が継ぐ予定でしたが病弱だったので、家康の命令で直継は分家して上野安中藩主となり弟の井伊直孝が彦根藩主を継ぎました。井伊家からは幕末の安政の大獄で有名な井伊直弼が出ています。

 

また、最後の彦根藩主井伊直憲の孫の井伊直愛(いいなおよし)は戦後に彦根市長として立候補、在任期間は1953年から9期にも及び、井伊家が代々彦根藩主であった事から「殿様市長」と呼ばれていました。

 

こちらもCHECK

風雲児たち 幕末編 33巻
1分でわかる!日本史漫画『風雲児たち 幕末編』

続きを見る

 

織田信長スペシャル

 

 

 

 

井伊直政の名言

armor(鎧を身にまとう武士)

 

井伊直政の名言には、「捨てて苦しかるまじき敵と見ば、敵にてはあるまじと申すべし」があります。これは、逃がしてもこちらに害を為す恐れがない敵はもう敵とは呼ばないと言う意味で、一度敵対したからと言って無暗に敵の命を奪う事を戒めた言葉です。

 

井伊直政は戦場では一切の容赦をしない人でしたが、刀を捨てて降伏した敵には慈愛を持って接し武士の情けを見せました。

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

井伊直政は徳川四天王で唯一、三河出身ではありません。そして年齢も一番若く、最も遅く家康に仕えました。外様の直政でしたが勇気抜群で武勇と外交交渉に長けていて、またたくまに家康の信頼を勝ち得、自身の死後、徳川の譜代では破格の30万石を有する彦根藩の藩祖となりました。部下と自分には厳しい直政ですが、降伏した敵には情をかけ領民にも慕われる立派な武将だったのです。

 

こちらもCHECK

薩摩藩士の猿叫
猿叫とは?薩摩藩士の魂の叫びに新選組も警戒した薬丸自顕流

続きを見る

 

麒麟がくる

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
勝海舟、西郷隆盛、織田信長

-徳川家(戦国)
-,