NHK大河ドラマどうする家康の7話では、家康と三河一向一揆との対立が描かれました。ドラマでも家康は三河一向一揆勢力の財力に脅威を抱きますが、その財力の一翼を担ったのが戦国大名からの税の徴収を拒める不入の権でした。しかし、この不入の権はどうやって成立したのでしょうか?
この記事の目次
不入の権はどうして認められた?
不入の権とは、荘園のような特定のエリアに守護大名や守護大名の家来が踏み込む事が出来ない権利です。この権利は荘園主が室町幕府に献金する等の働きかけで取得できました。そのため、より詳しくは守護使不入権と呼びます。
守護不入権は、元々、領国における権利を拡大した守護の年貢の収奪に対し荘園側の防衛策として生まれたものでしたが、年貢を拒否できるようになった荘園は大きな経済力を持つようになり、武装して実力で守護大名の介入を阻止するようになりました。
こちらもCHECK
-
本多正信の死因は老衰による大往生!謀臣正信が生き残った理由は無欲さ?
続きを見る
三河一向宗の不入の権は松平広忠が認めた
時代が下り、室町幕府が無力になると各地の守護大名は独立傾向を強めて戦国大名化し、領国に対する管理を強化しました。しかし戦国大名の力を持ってしても財力を蓄えた一向宗のような勢力と事を構えるのは簡単ではなく、その勢力を利用するために戦国大名として不入の権を認める事もありました。
三河では、本證寺、上宮寺、勝鬘寺が本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼称されて勢力を振るっていて、家康の父の松平広忠は権力が不安定だったので、教団との衝突を恐れ、三河の本願寺教団に不入の権を認めていたのです。
こちらもCHECK
-
三州錯乱の大事件とは?家臣が家康を見限った?徳川家康の大ピンチ「どうする家康」
続きを見る
戦費調達で家康が不入の権を破り一揆が勃発
桶狭間の戦いの後、今川から独立した松平家康はその後も今川氏真との抗争を繰り返していましたが、あまり資金がないので戦線は膠着しました。その中で家康は自分に一銭も税金を支払わず不入の権を盾にホクホク栄えている三河三ヶ寺に対し憤り、独断で不入の権を破って強引に税金を徴収します。それに対し三河三ヶ寺は激怒、本證寺第十代空誓は、三河国内の本願寺門徒に檄を飛ばして家康との全面戦争に入ったのです。
こちらもCHECK
-
延暦寺、戦国大名も恐れた武闘派ボーズ組織を徹底解説
続きを見る
なんで一向一揆に三河武士まで従ったのか?
三河一向一揆が家康に敵対したのは分かりますが、その一向宗に対し家康の家臣が敵対するのではなく、次々と寝返ったのは何故でしょうか?
実は、これは話が逆で、家康を見限って本願寺についた本多正信、蜂屋貞次、夏目吉信、石川康正(石川数正の父)は、松平の家来になる前から本願寺門徒でした。家康の出身母体である安祥松平氏は勢力を拡大していく中で、本願寺門徒を部下に取り込んだのであり、彼らが松平氏への忠義と信仰心の間で揺らぎ、家康を裏切るのは無理からぬ事ではあったのです。
家康は三河一向一揆を平定すると本願寺勢力の寺社に対しては改宗など厳しい措置を取りましたが、信仰心と忠誠心の板挟みになった三河武士に対しては寛大な処置を取り、本多正信や渡辺守綱が家康に帰参しています。
こちらもCHECK
-
大坂城を最初に築いたのは織田信長だった!?
続きを見る
家康は最初から本願寺勢力殲滅を狙った?
家康の一方的な不入の権の無視により始まった三河一向一揆ですが、家康は戦費捻出の苦しさから不入の権を無視したのではなく、最初から本願寺勢力の殲滅を狙っていたようです。
三河を統一した後は、今川、織田、武田、北条のような戦国大名と競わねばならない家康にとって領国の三河が本願寺勢力の地盤である事は極めて不都合でした。税収の問題だけではなく、自分のコントロールに従わない本願寺勢力はどこかで駆逐する必要があったのです。
こちらもCHECK
-
なぜ戦国大名は仏教を信仰したの?
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
今回は家康と敵対した本願寺一向一揆の引き金となった不入の権について解説しました。元々は横暴な守護大名の年貢収奪を阻止する為に荘園側が室町幕府に働きかけて成立した不入の権ですが、その特権を背景に荘園が富を蓄えて武装し自力で特権を維持できるようになって、戦国大名にとっては脅威になっていました。家康は天下を統一するだけはあり、そのような既得権益集団は早期に潰すべきと考えて三河一向一揆を戦い、これを殲滅したのです。
こちらもCHECK
-
松平元康はどうして徳川家康に改名したの?【どうする家康】
続きを見る