2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公は徳川家康です。ドラマは歴史に名高い桶狭間の戦い直前から開始されますが、家康の戦国大名人生のスタートである桶狭間の戦いの頃、家康の状況はどうだったのでしょうか?1500文字でサクサクと解説しましょう。
この記事の目次
松平信光が三河国に勢力を築く
松平氏の史料的に確認できる直接の祖先は松平信光です。信光は三河の土豪で、室町中期に幕府政所執事伊勢貞親に仕え、当時の三河守護細川成之の指示で三河額田郡一揆を鎮圧。恩賞として一揆勢が保有していた領地、深溝を与えられました。
信光はその後、三河の有力武将である戸田宗光に娘を嫁がせ、応仁の乱では東軍に味方。西軍方である畠山氏が守る三河安祥城を奇襲して奪い、五男の光重を岡崎城主西郷頼嗣の娘婿として岡崎城も支配下に置きます。応仁の乱後、幕府の権力が弱まると信光は安祥に進出するなど西三河に勢力基盤を拡大しました。
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48名の子供に恵まれ分家を多く残した信光
松平信光は89歳で亡くなった説もあるなど体が強健で、しかも生涯に48名もの子宝に恵まれた艶福家です。信光は大勢いる息子たちを分家させ、竹谷松平家、安祥松平家、形原松平家、大草松平家、深溝松平家、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家などを支配地域に設置。これが後に十八松平家の元になっていきました。
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岩津松平家が衰え、安祥松平家が宗主へ
松平信光の死後、岩津松平家が松平氏宗家となりましたが、永正5年(1508年)に今川氏親の代理でやってきた伊勢宗瑞に攻められます。井野田合戦です。岩津松平家の松平親長は奮戦して伊勢宗瑞を寄せ付けない戦いぶりを見せ、援軍として安祥松平城から松平長親が来ると伊勢宗瑞は退却します。
しかし、その時には岩津城は陥落し、宗家の岩津松平が没落、代わりに安祥松平の松平長親が松平宗家の地位につきます。その後、松平長親は隠居し、嫡子の親忠が家督を相続しますが指導力不足で松平氏をまとめる事が出来ず、長親の命令で強制隠居となり長親の孫にあたる松平清康が家督を相続しました。
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松平清康が一時三河国を統一するが
家督を継いだ清康は反発する岡崎松平家の山中城や明大寺城、岡崎城を攻略して本拠地を岡崎に移転します。清康は岡崎を拠点に、北三河、東三河まで併合し城下町形成や岡崎五人衆、代官、小代官体制を敷いて、戦国大名による両国の直接統治を目指しますが西に勢力を伸ばそうと尾張を攻めた所で家臣に暗殺されてしまいました。
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流浪し今川義元を頼る松平広忠
この時、息子の松平広忠は10歳でしかなく、三河は再び、誰が松平家の頂点に立つかで内紛が勃発します。清康の死に乗じたのは叔父の松平信定で広忠の本拠地である岡崎城を強引に奪い取りました。
当時、広忠の曽祖父三河氏のドン、松平長親は健在でしたが、幼い広忠に器量を認めなかったのか、信定の所業を黙認。広忠は毒殺の恐れもある事から岡崎を離れ、伊勢の吉良義持を頼って逃亡し、松平氏の棟梁は事実上伯父の信定となります。
吉良氏は義持死後、外交方針の変更により織田氏と連携するようになり立場が危うくなった広忠は再逃亡。吉良を見限って駿河・遠江を領有する戦国大名今川義元に接近して保護を受け、天文9年松平信定の死去に乗じて岡崎城に帰還します。
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今川の庇護を受けて織田と戦い、広忠が病死
今川氏を頼った事により広忠は織田家とは敵対する事になり、三河安祥城を巡って何度も織田信秀と戦いました。その後、今川家から援軍を求める必要から、嫡男の松平竹千代(家康)を駿府の義元の下へ送りますが、親戚筋の戸田康光が裏切り、竹千代は織田方に送られます。
竹千代は以後、織田家の人質として2年間過ごしますが、小豆坂の戦いで松平・今川連合軍が織田軍を破り、竹千代は人質交換で今川家に送られました。天文18年(1549年)松平広忠は病死、義元は岡崎城へ駿府から城代を送り込み、松平家を間接統治します。
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日本史ライターkawausoの独り言
ざっと、ここまでが徳川家康の直接の先祖、松平信光から桶狭間の戦いの前までの歴史です。
この後、家康は今川義元の命令を受けて、大高城に今川軍の兵糧を運び込む仕事を請け負い、無事に仕事を済ませ、これで岡崎城に帰れると期待している所で、今川義元が織田信長に討たれる大事件に遭遇するのです。
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