酒井忠次は徳川四天王の筆頭であると同時に、徳川家康とは二重、三重に縁続きという部下と言うより親戚のような立場でした。
忠次は武勇と智謀に秀でた武将であり、味方でも離反するケースが多い独立心旺盛な三河武士の中では珍しく最初から最後まで忠義を貫いた人でもあります。今回はそんな酒井忠次について多角的に見ていきましょう。
この記事の目次
酒井忠次の生涯
酒井忠次は大永7年(1527年)松平氏の譜代、酒井忠親の次男として三河国額田郡井田城に生まれます。元服後は徳川家康の父、松平広忠に仕え、家康が7歳の時に人質として駿府に赴くときにも23歳で同行しました。
弘治2年(1556年)忠次は福谷城に詰めて、攻めてきた織田家の武将柴田勝家2000騎に対し城を打って出て戦い勝家を敗走させ武名を轟かせ、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの後、家老となり、三河一向一揆では酒井氏が一揆側に寝返る中、変わらず家康を補佐します。
永禄7年には吉田城を無血で開城させる戦功を立て吉田城主として三河東部の松平氏や国人を統制する権利を与えられます。武将としても勇猛で、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで先陣を切り、元亀三年の三方ヶ原の戦いでも小山田信茂を撃ち破っています。
天正7年(1579年)家康の嫡子、松平信康が織田信長より謀反の疑いで詰問を受けた時には、大久保忠世と弁解のために安土城に向かいますが失敗、信康は切腹します。本能寺の変後、織田領として空白地帯になっていた甲斐と信濃の掌握を計りますが、信濃国衆の懐柔は諏訪頼忠、小笠原貞慶の離反で失敗しました。
小牧長久手の戦いでは、羽黒の戦いで森長可を敗走させ、天正13年(1585年)家康の宿老だった石川数正が出奔すると家康第一の家臣として家中最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されました。1588年10月には長男の家次に家督を譲って隠居し、慶長元年(1596年)京都桜井屋敷で死去しています。
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酒井忠次の異名は?
酒井忠次に異名らしきものは伝わっていませんが、幼名は小平次と言い通称は小五郎、晩年には官位から左衛門督と呼ばれたと考えられます。
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徳川家康の四天王は誰?
徳川家康の四天王は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4名です。この中で酒井忠次は一番の年長者で、また最も家康に頼りにされたと考えられます。
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酒井家の家系は?
酒井氏は、松平氏の祖である松平親氏と義理の兄弟であるようで松平家中における最古参の宿老、酒井忠次も松平氏とは深い血縁関係を持っていました。酒井忠次の正室は家康の祖父である松平清康と於富の方の間に生まれた碓井姫でした。また、於富の方は清康正室となる前は水野忠政の正室で、家康の生母、於大の方の実母なので、忠次は家康にとって父母双方の妹の夫であり義理の叔父です。
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酒井家の先祖は?
酒井氏の先祖は伝承では、大江広元の五男海東忠成とされ、三河国碧海郡酒井郷あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主でした。15世紀、領主の酒井忠則が世良田氏を名乗る時宗の僧侶、徳阿弥を娘婿に迎えますが、この徳阿弥が還俗して酒井親氏と名乗り、その間に生まれた子が酒井氏の祖である酒井広親であり酒井忠次に繋がるようです。
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酒井忠次の妻は
酒井忠次の正室は碓井姫で本名は於久とされます。家康の祖父である松平清康と於富夫人の間に誕生しました。忠次とは再婚で最初の夫は松平康忠でしたが桶狭間の戦いで討ち死にし、その後忠次に嫁いだようです。
碓井姫の生母、於富も再婚で清康と結婚する前には水野忠政に嫁いで、そこで家康の生母となる於大を産んでいるので、碓井姫は家康から見て、父方でも母方でも叔母という特異な存在でした。
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酒井忠次の歴史的影響
酒井忠次は元々松平家の宿老で、家康の天下統一に大きな貢献をしたので、子孫も幕府において重く用いられました。忠次の家系は左衛門督酒井家とされ、本家も分家も出羽国に領地を持ち、本家は出羽大泉藩12万石、分家は佐沢藩1万2千石(後に改易)大山藩1万石(後に改易)松嶺藩2万2500石があります。
酒井家は忠次の系統以外にも、雅楽頭酒井家、小浜酒井家と広がり、譜代大名として七家が明治維新まで存続しています。
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酒井忠次の逸話
酒井忠次の逸話には信長を唸らせた話があります。長篠の戦いの時、信長に意見を求められた酒井忠次は鳶巣山の攻略を進言しました。鳶巣山は武田軍の後方を衝き、兵糧を焼いて退路を阻む為に奪うべき場所だと説明したのです。
しかし、説明を聞いた信長は激怒し「このどたわけが下がれ」と叱り飛ばしました。周囲は静まり返り(普段からしつこく信長様の作戦に口を挟むから忠次が疎まれたのだ)と内心嘲笑します。
ところが軍議が終わると信長は内々に使者を派遣して忠次を呼び戻し「さっきは怒鳴ってすまなかった。この話が武田の乱波に漏れる事を警戒し一芝居位打ったのだ。鳶巣山奇襲は最善の策であるから是非実行せよ」と奇襲を命じたそうです。
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酒井忠次のエピソード
酒井忠次には武芸だけではない知的なエピソードもあります。元亀4年(1573年)正月、敵対している武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かなと詠んだ句が送られてきました。これは松平が枯れて武田が躍進するという意味で、家康や徳川家臣団は激怒しますが、それを読んだ忠次は句の濁点を入れ替え「松枯れで竹だくびなき明日かな」と読み替えて武田に送り返しました。
これは松は枯れず竹は首がなくなるという意味で松平は生き残り武田は首が無くなると濁点を替えただけで、意味を真逆にしたもので忠次の教養の高さが窺える逸話です。
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酒井忠次の死因は?
酒井忠次に明確な死因は伝わっていませんが、69歳と当時としては高齢で亡くなった事から老衰が大きな理由と考えられます。また忠次は1588年頃から眼病を患い、ほとんど目が見えない状態であったそうで、あまり動けずに屋敷でじっとしていた為に運動不足となり、より早く老衰が進んだとも考えられます。
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酒井忠次の死
酒井忠次の死は、1596年で豊臣秀吉の慶長の役の真っ最中でした。家康は九州の名護屋まで来ましたが後詰で大陸に渡る事はなかったので、他の大名よりは負担は小さかったでしょう。しかし、関ケ原の戦いを経て、徳川が天下を獲るさまを見られなかったので、忠次にとっては無念だったかもしれません。
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酒井忠次の死後
酒井忠次の死後、家康の腹心は本多忠勝や榊原康政、井伊直政のような武将、それに本多正信、大久保忠隣のような文官へと移り変わってゆきました。忠次の息子の家次は、変わらず徳川家譜代の地位にありましたが、父親ほど武芸の才能はなく、大坂冬の陣では大坂城の城壁に阻まれて活躍できず、夏の陣では天王寺口を守るも大坂方の猛攻に敗れて逃げて家康の叱責を受けるなど、冴えない点が目立ちますが大きな失敗もなく、越後高田藩10万石を領有しました。
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酒井忠次の子孫
酒井忠次は碓井姫との間に酒井家次、本多康俊といった子供が生まれています。家督を継いだ家次は最初、下総臼井藩3万石から出発して越後高田藩10万石に登り、家次の子の忠勝の時代に出羽庄内藩14万石と譜代屈指の石高を誇り、以後は一度の転封もなく幕末には名君である酒井忠篤が登場して3万石を加増され17万石になります。
慶応4年(1868年)戊辰戦争では酒井忠篤が奥羽越列藩同盟の一員として薩摩長州を中心とする官軍と戦い、秋田藩や新庄藩そして官軍の攻撃をも破り連戦連勝しますが、周囲が次々に降伏する中で持ちこたえられず無敗のまま降伏しました。酒井忠篤は維新後に陸軍軍人となりドイツに派遣されて軍制改革に当たるなど活躍しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は徳川四天王の筆頭、酒井忠次について解説しました。忠次は武勇に秀で東三河の松平氏や国人勢力を監督する重鎮でしたが、ただ怖いだけではなく宴会の際には自ら酒井家名物「海老すくい」を披露するなど陽気で親しみやすい面を見せて部下に慕われました。また家康に血縁的に近いので、家康も部下と言うより親族として接し、厚い信頼を受けていたのです。
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