広告

結城秀康とはどんな人?秀吉の養子となり征夷大将軍の地位を逃した家康の次男


 

コメントできるようになりました 織田信長

家臣にどうする?と迫れられる徳川家康

 

結城秀康(ゆうきひでやす)は家康の次男です。嫡男の松平信康が切腹に追い込まれた結果、秀康は昇格して長男となりますが、すでに生母の地位が高い弟の徳川秀忠が誕生していて、さらには羽柴秀吉と講和を結ぶための人質が必要になった事から早い時期から徳川の家督から縁遠くなってしまいました。しかし秀康はその事に腐ったりせず、武人として手柄を立て続け、最終的には越前68万石を領有する大大名に昇格するのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 ほのぼの日本史レポート引用について



お城の下女だった於古茶と家康との間に誕生

名古屋城

 

結城秀康は天正2年(1574年)徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見(ふちぐん・うぶみむら)村で誕生しました。幼名は於義丸(おぎまる)です。生母は氷見吉英(ひみよしひで)の娘、於古茶(おこちゃ)長勝院(ちょうしょういん))でしたが、於古茶はただの下働きの下女で正室の築山殿(つきやまどの)(めかけ)と認めた女性ではありませんでした。そのため、於義丸を家康は認知できず、於古茶は浜松城を退去、産まれた於義丸は本多重次(ほんだしげつぐ)や浜名湖周辺の代官を務める中村源左衛門の下で養育されました。於義丸が誕生してからも、家康は正室の築山殿を気にして3歳になるまで対面を果たさなかったそうです。

 

こちらもCHECK

築山殿(瀬名姫) 女性
築山殿(瀬名)が岡崎城に入らず寺に住んだ本当の理由は?【どうする家康】

続きを見る

 

 

異母兄、松平信康が自殺し長男となるが

織田信長の首を持って逃げ出す弥助

 

 

しかし、天正7年(1579年)武田勝頼との内通疑惑から、兄の松平信康と正室の築山殿が家康によって処断されます。これにより、次男の於義丸が家康の長男に昇格する事になりますが、まもなく本能寺の変が勃発して織田信長が明智光秀に討たれました。この本能寺の変が秀康が徳川家の家督を継ぐ事を不可能にしていきます。

 

こちらもCHECK

平岩親吉
平岩親吉とはどんな人?家康に信頼され汚れ仕事を引き受けた忠臣

続きを見る

 

織田信長スペシャル

 

 

和睦の条件で秀吉の養子となる秀康

清須会議b 丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興

 

山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は清州会議を主導し、信長の後継者としてのし上がっていきます。これに対し不満を持った家康は、信長の子である織田信雄(おだのぶかつ)を担ぎ上げて天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いを起こしました。しかし、秀吉は織田信雄の城と家臣を狙い撃ちで陥落させ、結局、信雄自体が秀吉に屈服。家康は大義名分を失い秀吉と和睦します。

 

この時、秀吉は家康に人質を差し出す事を要求します。この時、家康には3男の長松(ちょうまつ)(後の徳川秀忠)が生まれていましたが、生母の身分が低い於義丸が人質として選ばれます。家康は於義丸に名刀、童子切(どうじきり)を授けて秀吉の下へ送り出しました。

 

こちらもCHECK

中国大返し ver2(豊臣秀吉)
豊臣政権の特徴は? 成り立ちから滅亡までを解説します。

続きを見る

 

 

 

戦国武将として九州征伐で活躍

battle-Soldier(合戦に参戦する兵士)

 

於義丸は羽柴秀吉の養子となり、天正12年(1584年)羽柴三河守秀康を名乗り、河内国に1万石を与えられます。秀康は武勇に優れ、九州征伐に従軍して初陣を果たし、豊前岩石城(ぶぜんいわいしじょう)攻めで先鋒を務め、日向(ひゅうが)平定戦でも手柄があり天正16年(1588年)には豊臣姓を下賜されました。

 

こちらもCHECK

島津家久
島津家久とはどんな人?力も情もある島津4兄弟の末っ子

続きを見る

 

 

 

秀吉に鶴松が誕生し、結城家に養子に入る

わずか4ヵ月で後継者に指名される豊臣鶴松

 

しかし、天正17年(1589年)秀吉に鶴松(つるまつ)が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4か月で豊臣氏の後継者に指名。秀康は秀吉の養子としてはお役御免となり再び、他家に養子に出される事になりました。

 

天正18年(1590年)後北条氏を滅ぼした秀吉は、徳川家康から駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五か国を取り上げ後北条氏の関東へ移封します。家康は正直、不愉快でしたが秀吉の権勢を考えて従いました。秀吉は家康の不満を宥めようと秀康を北関東の大名、結城氏の婿養子にしようと思いつきます。

 

Change-of-attendance(参勤交代)

 

そういうわけで秀康は関東へ下向し黒田官兵衛の執り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領十万千石を相続します。秀康は、結城秀康になった後も大崎葛西一揆鎮圧や文禄慶長の役で肥前国唐津に滞陣するなどしています。

 

こちらもCHECK

伊達政宗 
山形県の戦国時代はどんな様子?炎立つ!最上と伊達と上杉が支配を争った東北の雄

続きを見る

 

はじめての戦国時代

 

 

 

秀吉が死ぬと関ケ原の前哨戦で家康を補佐

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

 

秀康は秀吉が死ぬと慶長5年(1600年)6月まで伏見城を守備、その後、関ケ原の前哨戦である会津征伐に参加しました。この時は家康が本軍を率いて東海道を、そして異母弟の秀忠が東山道を進軍し秀康は上杉景勝の抑えのために宇都宮に留まります。家康が関ケ原の戦いに勝利すると、秀康は越前国北荘(きたのしょう)68万石余に加増移封されます。

 

こちらもCHECK

徳川家康vs石田三成(関ヶ原の戦い)
関ケ原は天下分け目の合戦ではなかった!【日本史新説】

続きを見る

 

47都道府県戦国時代

 

 

越前北荘68万石の大名となるが梅毒で死去

 

秀康は慶長11年(1606年)には再び伏見城の留守居を命じられますが、病気で政務が執れない状態となり翌年3月1日に越前へ帰国し34歳で死去しました。死因は梅毒であるそうですが、それ以外にも下痢や発熱、喉の渇きなど複数の病気に苦しめられていた可能性もあります。秀康の死後、越前68万石は、嫡男松平忠直が継ぎました。

 

こちらもCHECK

疫病が蔓延している村と民人
梅毒とは?戦国武将を苦しめ21世紀も増加傾向の性感染症の真実

続きを見る

 

どうする家康

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso

 

結城秀康は生母の身分が低く、また正室築山殿が認めた妾ではなかった事がひびき、信康死後は実質の長男でありながら徳川の家督を継ぐ事は出来ませんでした。しかし、秀康は、その事で恨み言は言わず、分を弁えて家康や兄弟たちと協力し、徳川が天下を獲るのに大きな貢献をしたのです。

 

こちらもCHECK

名古屋城
福井県の戦国時代はどんな様子?ミスター下克上越前朝倉氏を出した北陸の強国

続きを見る

 

本能寺の変の特集

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
勝海舟、西郷隆盛、織田信長

-徳川家(戦国)
-